『突然プロカメラマンになる方法』(30)テレビ・2~閉鎖的な世界

~魚返一真の自伝的小説~

 僕は車でサクラテレビへ向かった。サクラテレビは新宿からそれほど遠くない高台にあって、すぐ近くには女医さんを育てる巨大な大学病院がある。玄関で警備員と軽い挨拶をして美しい受付嬢の方へ歩いた。

「料理の巨人の美術デザイナーの、、えっと稲葉さんにお会いしたいのですが」
「はい、お客様のお名前は、、」
「魚返です」
「承知致しました、少々お待ちください」

 昨夜起きた事件のことを検証してみた。僕が城之内カラーに発注した新番組『料理の巨人』用の巨大な写真三枚が、午後四時に番組収録が行われるサクラテレビの第六スタジオに城之内カラーの数名によって搬入されたはずだ。写真の仕上がりはこちらでチェック済みだし、問題があったとすればパネルに貼付ける段階だろう。

「魚返様、ただ今稲葉がこちらへ参りますので、もう少々お待ちください」と受付の女の子が言った。数分後、稲葉と思われる男が受付嬢に一言いうと僕の方へまっすぐに歩いてきた。アルマーニ(のような)のスーツを着た色黒で強面の男だった。こいつと殴り合ったら僕なんぞひとたまりもないと思った。

「魚返さん?」
「はい、魚返です」

 稲葉は僕を促すようにテレビ局の中を無言で歩き始めた。迷路のような廊下を右に左に歩いて食堂へ出た。何故かテレビ局はどこも迷宮のような作りで、内部を迷わずに歩けることが業界で仕事をするための最初の試練なのだ。稲葉は僕に何も言わず珈琲を2杯トレーに載せて奥の席に座った。食堂にはテレビ局らしく見た事のある顔のタレントやアナウンサー?がいた。しかし芸能界に疎い僕にはタレントの名前はわからなかった。

「いきなりですが、本題に入りましょう」
「ええ、どうぞ」

 稲葉が言ったことはこうだった。昨日の午後四時に城之内カラーからパネル用の写真が配送されてきた。その写真を城之内カラーの社員がベニヤ板でできたパネルに貼付けようとした。しかし、城之内カラーが来た時にはすでにパネルは巨大なセット、つまり『料理の巨人』のキッチンスタジアムに組み込まれてしまっていたのだ。何らかの理由でキッチンスタジアムのセットのくみ上げが時間が早まったのだろう。僕が指定した搬入時間では貼付けが間に合わなかった。つまり、写真が貼られていないベニヤがキッチンスタジアムの中央に三枚露出していたのだ。それを見た城之内カラーは、貼付けを断念し写真を置いて帰ろうとした。しかしサクラテレビの大道具は、写真はそっちの持ち場、つまり城之内カラーに貼付けをしろと言った。城之内カラーは、ならばパネルを一旦降ろして床で貼りたいと。大道具はそっちが勝手に降ろすなりやってくれ、、、そんな問答を繰り返すうち大道具が切れて殴り合いになった。当然、城之内カラーの二人に勝ち目があるはずはない。

 しばらく沈黙があって、「なるほど、どちらがどちらということでもなさそうな気がします」と僕が口火を切った。
「そうじゃないでしょう」と低い声で稲葉が言った。
「まあ、聞いてください。城之内カラーは一般的な仕事として今回の件を受けているのですが、聞いたところテレビの業界には業界のやり方があるようですね。それを知らなかった城之内カラーに問題があったかもしれません。城之内カラーは日本のプロラボの最王手です。それでもやり方がわからないのがテレビの世界なんですね。いずれにしても、僕が城之内カラーに発注したのですから全責任を僕がとりましょう」
「責任?それはもういい。すでに城之内の連中に鉄拳を加えていますから」
「ではどうすれば、、、」
「私は魚返さんに今後この仕事から降りてもらおうと思った。しかし考えが変わった。理由は、あの写真がなくては困るからです。もちろん、魚返さんの態度次第では僕もあなたを殴っていたでしょう。しかし、そっちが非を認めるなら、、、」
「僕もこの仕事から降りたいと思っていました。それが無理なら、、どうでしょう、この際そっちのやり方を教えて頂けませんか」
「いいでしょう」

 テレビ業界で仕事をすることは、広告や雑誌で仕事をするのとまるで違うことを知った。ただ写真を撮って納めたら終わりではない。複雑な決めごとや収録までのタイムテーブル、その他テレビ業界そのものの仕組みを知らなくては仕事を無事故でこなすのは難しい。稲葉が僕に教えた事は業界を知り尽くした業者、テレビジョンフォトと組めということだった。僕もそれしかないだろうと思った。しかし、いざ発注してみるとテレビジョンフォトの見積もりは城之内カラーの2倍の金額で、テレビという世界の金の掛かり方は雑誌などとは比較にならないことを知った。その後『料理の巨人』は高視聴率を獲得し、僕の番組とのかかわりも深くなって行き、いくつかのメジャーな番組から様々な依頼を受けることになって行くのだ。もちろん、苦労も比例して増えて行った。

(つづく)

□時代が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2010-09-19 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 2 :

『突然プロカメラマンになる方法』(29)テレビ・1~乱闘騒ぎ

~魚返一真の自伝的小説~

 1993年の10月のある日のことだ。その日の午前中、僕は前日に撮影したフィルムの現像チェックをするために新宿の城之内カラーの店頭を訪れていた。いつもならカウンターの中から愛想よく僕に挨拶をする男性社員の雲野がなぜか僕に背を向けたままだった。仕方なく、雲野の隣に立っている女性にテスト現像が終ったフィルムを出してもらった。チェックが終って店を出ようとした時、他の客と話す雲野の声がしたので、僕はドアの内側で立ち止まって会話を聞いていた。

「雲野ちゃん、どうしたの、その顔」
「いいえ、何でもないです」
「何でもないって、かなり腫れてるよ、殴られたの?」

 客にしつこく聞かれるうちに雲野は高揚し次第に声が大きくなって、まるで僕の方へ投げつけるような口調になった。

「どうもこうもないよ。殴られたんですよ、こっちにゃ何の落ち度もないって言うのにね」
「そりゃひどいね。口ん中切っているでしょう。歯も折れているでしょう。酒飲んでてやられたの?」
「違いますよ、テレビ局ですよ、、、」

 僕はハッとした。僕は一週間ほど前、雲野にサクラテレビでオンエアされる『料理の巨人』という新番組用の巨大なパネルを発注していた。その配達指定日が昨日の夕方だったこを思い出した。僕が発注した仕事でなにかトラブルでもあったのだろうか。僕は雲野の方へ歩み寄った。

「雲野さん、その顔のキズだけど、まさかサクラテレビで?」
 
 雲野は僕の問いかけに答えず、そっぽを向いたままだった。

「ねえ、僕の仕事で殴られたの?答えなよ」
「まあ、そういうことです」
「何があったの?」
 
 何度理由を聞いても雲野は答えなかった。その時、ポケベルが鳴った。『料理の巨人』を制作している東京テレビワークからだった。僕はすぐに城之内カラーを出て、店の前の公衆電話から東京テレビワークに電話した。

「はい。東京テレビワーク、料理の巨人制作室です」
「魚返ですが、、、」
「はいはい、魚返さんですね、、少々お待ちください。魚返さんのポケベル鳴らした川崎に代わります」
「・・・」
「川崎です、おはようございます」
「なんかあったの?」
「それが、昨夜のセットの立て付けで、魚返さんがよこした連中とサクラテレビの大道具さんとの間でトラブルがあったらしく、最後は殴り合いの喧嘩になったんです。ご存知ありませんか」
「やっぱりそうだったんだ」
「それで、サクラテレビの『料理の巨人』のスタジオセットの責任者が、すぐに魚返さんに来るように、という連絡がこっちに来ているんです」
「ああ、そう。それで相手は怒っているの?」
「ええ、大変な剣幕です」
「わかった、これからサクラテレビに行くよ」

 今回は僕も殴り合いを覚悟しなくちゃならないのかもしれないと思った。少年時代に何度か経験した殴り合いを思い出していた。腕っ節の弱い僕には口喧嘩しか勝機がなかった。最初が肝心だと思っていた。言葉で強気に出て相手がひるまなければ、あとはぼこぼこに殴られて無惨に倒れる。それが僕の喧嘩なのだ。しかし、ガキの頃の喧嘩の経験がここでも通用するはずがない。僕は城之内カラーの雲野の腫れた顔を思い出し、果たし合いを覚悟して河田町にあるサクラテレビの第六スタジオへ向かった。

(つづく)

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2010-08-25 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(28)アシスタントの顔ぶれ

~魚返一真の自伝的小説~

 有能なアシスタントの玄葉君がニューヨークへ去ってから数日後、僕は彼がくれたメモに書かれている一才君という男に電話して、次の撮影のアシスタントを依頼した。彼もまた玄葉君に負けない才能の持ち主だった。僕を驚かせたのは一才君が日本語以外に4カ国語を話せることだ。あるテレビ番組の仕事で、5カ国の料理人を撮った時のことだった。料理人の国籍は、フランス、イタリア、アメリカ、中国、日本だった。なんと一才君は僕が料理人たちに伝えたい撮影意図をそれぞれの国の言葉で通訳したのだ。僕はとても驚いてしまった。何と言う才能のある人だろう。その才能を他の仕事で使わなきゃもったいないとさえ思った。
 僕の仕事を支えてくれた多くのアシスタントがいる。少し彼らのことを思い出してみよう。玄葉淳一と一切健司を除くとあとはみんな女の子ばかりだった。

◯玄葉淳一(33才ぐらい)~行動力があり几帳面、ルックスは僕よりカメラマンらしい、写真の知識も豊富、あらゆる撮影を完璧にアシスタントできる。

◯一才健司(30才)~5カ国語をあやつり、玄葉君と同じく、すべてを切り盛りできる。

◯原知世(20才)~城之内カラーの店の前でスカウトした。350ccのバイクに乗るカメラマン志望のカッコいい女の子。アシスタント経験はほとんどなかったが、彼女の真面目さを買って雇った。写真学科。

◯手塚祥子(22才)~しっとりとして美しい女性。どんな現場へ行っても、美しいですね、と言われる。仕事ぶりも中々手際が良い。写真学科卒。

◯吉田麻紀子(19才)~僕の作品のモデルとして多くの作品に出演している。どんな現場へ行っても、カワイイ!と言われる。美大卒。

 他にも数回程度の仕事をしたアシスタントがいるが、おおよそこれらの五人が僕のアシスタントだった。この先も『突然プロカメラマンになる方法』にはこれらのアシスタントが何度も登場する。

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2010-08-18 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(27)ファッション・5~終りよければ

~魚返一真の自伝的小説~

 玄蕃君はとても仕事ができた。カメラのこと、機材のこと、業界のこと、何でも知っていたし、相当のスピードでなおかつ確実にセッティングができた。僕は輸入ファッション雑誌を切り抜いてファイルに入れたものをスタジオに持って行くだけで良かった。そのスクラップを参考にして玄蕃君がセッティングしてくれた。こうして、その後僕の元に集中的にやって来たファッションやタレントのスタジオ撮影を確実に切り盛りしてくれたのだった。彼のひげ面もスタジオで見るととても貫禄があって、初対面のヘアメイクやスタイリスト、それからクライアントなどは、玄葉君をカメラマンだと勘違いして名刺を差し出すこともあった。
 ついに玄葉君がニューヨークへ発つ時が来た。僕はとても困った。何故なら彼以上のアシスタントを探すことは不可能だと思われたし、経験の浅い僕には優秀なアシスタントがどうしても必要だった。

「玄蕃君、どうしても行ってしまうんだ?」
「はい、行きますよ」
「そのためにアシスタントをしていたんだったね」
「修行なんです、ニューヨークへ行って自分を鍛え直したいんです」
「これ少ないけど餞別、とっておいて」
「ありがとうございます、有り難く受取らせていただきます」と言うと玄葉君はボロボロのバッグから1冊のファイルを取り出し、
「このファイルを魚返さんへの置き土産にします」と言って僕に手渡した。
「こ、これは、、何時の間に・・・」
「何かの参考になればと思って」

 僕はファイルを開いて驚いた。何と、彼といっしょにやったすべての仕事のセッティングが克明に記録してあった。それぞれの仕事についてのカメラ、レンズ、フィルム、フィルター、照明機材の名称、セッティング、バック紙(布)の種類、、、それらを簡単なイラスト入りで解説してあったのだ。

「あ、、それから、もしもアシスタントでお困りになったら、一才君をいう男を紹介しておきますから、連絡してみてください」と言って、電話番号のメモを僕に渡した。

「ありがとう、本当にいろいろお世話になったね、玄蕃君の幸運を祈っているよ」
「はい、僕も魚返さんの成功を祈っています」
「さようなら玄葉君、ところでいつニューヨークへ発つの?」
「明日です」
「早いね、、行ってらっしゃい!」
「行ってきます!」

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2010-07-29 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(26)ファッション・4~出会いっていいなあ

~魚返一真の自伝的小説~

 とにかく僕は城之内カラーへ向かった。と言うか、何かにすがるようにそっちへ足が向いてしまっていた。カウンターで接客している森昌枝に会うためだった。

「やあ、森さん、久しぶりだねえ、、元気?」
「はい、元気ですよ。魚返さんもお元気でやってらっしゃるご様子で、嬉しいです」
「ああ、それほどでもないけど、、」
「ところで今日は何をお困りなのでしょう?」
「えっ!、僕が困ってる?」
「失礼しました、てっきり・・・」
「実は、そうなんだ。何とぞ教えてくだされ」
「はい、、待ってました。そうこなくっちゃ!」
「う~、、実はフィルムとフィルターのことを教えて欲しいんだよ。スタジオでファッション撮影をするんだよ。で、、告白するけどスタジオ初めてなんだよ」
「はい、知っていますが、、、」
「はぁ、、まあ話を進めよう。安全にカッコ良く撮りたいんだけど、、フィルムは何を使ったらいいかなあ?」
「それなら、以前にご紹介したEPPが安全かと思います。ISO100ですし、、、大きな声では言えませんが、その筋のカメラマンさんもEPPを使っている人が多いです」
「よし!EPPを50本くれ!」
「はい、ありがとうございます」
「あと、フィルターなんだけどさあ、、何がいい?」
「はあ?フィルターは専門的すぎて、、私ではちょっと・・・」
「そこを何とかさあ、、」
「私の知るところでは、その筋のカメラマンさんは一番弱いものをお選びになります」
「よし!フィルター、弱い方から二種類、、それを全色くれ!」
「色をお選びになってからご購入なさってはどうでしょう?」
「あのねえ、、僕はド素人なの、、色なんて何が何だかちんぷんかんだから、全部テスト撮影するんだよ!」
「なるほど、、」
 
 僕はコダックのラッテンフィルターとフジのCCフィルターをそれぞれ全色購入して、自宅でテスト撮影することにした。まあ、初心者ならこれぐらいの勉強は当たり前だと覚悟したのだ。僕にファッションページの撮影を依頼した編集者が、僕の今の状況を知ったらと想像して、ちょっと悪いなと思ったけれど、すぐに可笑しくなって森昌枝の前で吹き出してしまった。

「何が可笑しいのですか?私の顔、、変ですか?」
「いや、違うよ、、こっちの話、君には関係ないよ。あっ、そうだ!森さんさぁ、飛び切り優秀なスタジオアシスタントを知らないかなぁ」
「優秀かどうかわかりませんが、あちらの貼り紙をご覧なってみてはいかがでしょう」

 森昌枝が指差したのは、店の入口の脇の壁に張っているコルクボードだった。そこに五十枚近い数の貼り紙があった。それらは、アシスタントやります、運転手やります、カメラマンやります、、みたいな内容で、ボードはまるで素人御用達の音楽スタジオの壁に張ってあるバンドメンバー募集のようだった。アシスタントの貼り紙は三十枚ほどあった。僕はそれを片っ端から読んだ。そして、一人の男の電話番号を控えたのだった。その男のチラシにはこう書いてあった。「私は玄葉明です。アシスタント歴10年。得意なジャンル~スタジオワーク。対象~人物、ファッション。当方、、ニューヨークへカメラの武者修行へ行く資金が必要なためアシスタントをしています。他のアシスタントよりギャラが高いのは、スタジオワークなら誰にも負けないし、あなたが希望する明かりを作る自信があるからです。近い将来、旅立たなくてはなりません。時間がないのです。どうぞよろしくお願いします・・・」

 僕は城之内カラーを出て、近くの公衆電話ボックスに入った。

「もしもし、僕はカメラマンの魚返って言います。玄葉さん?」
「はい、玄葉です。お待ちしておりました」
「は?待ってたの?」
「はい」
「何で僕が君に電話するって知ってたの?」
「実は、ついさっき城之内カラーへ行って貼り紙をして来たばっかりで、その時、あなたとカウンターの女の子の話を耳にはさんで、、それできっと私にアシスタントを依頼してくると思ったのです」
「ああ、そうか、でも、、それから20分も経っていないのに、君はもう家に帰ってるの?」
「あ、はい、実は自分の部屋がない状態でして、、つまり、いずれ近い将来ニューヨークへ行くつもりでるから節約のため部屋は引き払って家賃を浮かせて、今は友人の部屋に居候しているんです」
「なるほど、、で、その友人の部屋ってのが城之内カラーの近くなんだね」
「はい、そのとおりです。電話ボックスの外の古いビルの三階を見てください」
「ちょい、待って、、、あ!手を振ってるひげ面の汚い人!それって玄葉くん?」
「はい、そうです」

つづく

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2010-07-17 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(25)ファッション・3~追いつめられる

~魚返一真の自伝的小説~

「もしもし、赤坂アートスタジオですか?そちらのスタジオをお借りして撮影をしたいのですが、ファッション写真を得意としたアシスタントを付けていただけませんか?」
「それは、、、」
「いませんか?そんなアシスタントは」
「アシスタントはカメラマンさんの指示で動いておりますので、当日スタジオでどんな撮影状況が欲しいかアシスタントに詳しく指示を頂ければご意向に沿った照明をお作りできると思います。つまり、スタジオ撮影の照明に関しまして彼らなりに経験がありますが、彼らは実際にカメラを覗いて撮影したことがないんです。ですから、自分たちが作った照明で撮影するとどうなるかという知識が足りないと思います。要するに、照明を作れても、レンズやフィルム、フィルターなどをどう選びどう組み合わせるかは、カメラマンの企業秘密の部分ですし、カメラマンの個性の部分だと思うのです。ですから、アシスタントの仕事はカメラマンさんの指示に従って照明を作ることだけしかできません」
「そうですか、、、」

 僕は困った。今の僕はスタジオの知識がまったくゼロだから指示など出せる状況にないのだ。僕が欲しいのは、僕はただシャッターを押せば良いように、何もかもやってくれるアシスタントなのだった。僕はアシスタントの問題をかかえたまま、とりあえずスタジオ撮影で必要な機材を揃えることにした。まずはいつものように新宿のカメラ店、ウメ屋の浜地君のお世話になることにした。

「やあ、久しぶり」
「いらしゃいませ、今日はどんな撮影でお悩みでしょうか」
「おいおい、お悩みでしょうか、はないだろう。こっちは一応プロカメラマンとして立派にスタートを切った身だよ」
「ああ、そうでございましたね。それは失礼しました」
「それがねえ、、浜地君、、実はスタジオ撮影を控えているんだよ。僕はスタジオのこと全然知らないからさ、、」
「なるほど、やはりお困りで。。承知しました」
「まあ、よろしく」

「まず、シンクロコードですが、お客様のコンタックスには接点が着いているので、そちらにシンクロコードの端っこを接続して、一方を汎用ストロボのシンクロ接点に入力してしまえば、あとはシャッターを押すとストロボが発光します」
「はあ?汎用ストロボって?」
「あの、、発光量の大きいストロボセットで、四角く大きなジェネレーターを床に置いて、ヘッドとう発光部分から出た光をアンブレラやソフトボックスなどというものを介すことで、柔らかい光を作ります」
「あっ、それテレビとかでスタジオ撮影のシーンが映った時、パッパッと光って、その後にチッチッチッチ~、って音がするやつね」
「そうです、その音の間に次の発光の為の充電をしているのです」
「で、、その汎用ストロボはこっちが用意するの?」
「いいえ、すべてスタジオで用意されていて、時間単位で貸し出ししています。シンクロコードもアンブレラやソフトボックスも借りられますが、カメラマンさんが自分の所有している機材を持込むこともあります」
「ああ、良かった~、僕は百パーセント全部をスタジオでレンタルする!」

 こんな具合に機材の問題はそれなりに解決して行った。

「ああ、助かったよ、何だかやれそうな気がしてきた」
「お客様、ところでフィルムやフィルターはどうされますか?」
「はあ?どうされてって、フィルムもいろいろ問題があるわけ?」
「実は、スタジオ撮影では様々なフィルムとフィルターの組み合わせによってカメラマンさんが出したい色になるんです」
「ぎゃあ~、、そんなこと今さら言われてもねえ、、フィルムはわかるけどフィルターってどういうこと?」
「いわゆるゼラチンフィルターと言われているものでして、、」
「ああ、それ知ってる。ガイドブックに載っていたけど、面倒だから無視していたんだよ。そうだ、赤坂スタジオのオヤジも電話でフィルターがなんちゃらって言ってた」

「じゃあ、フィルムとフィルターのことも教えてもらっちゃおう!」
「そうして差し上げたいのはやまやまですが、私にはそんな知識はありません。プロカメラマンでも正直、使いこなせている人は少ないんです。私にそのような知識がありましたら、とっくにプロカメラマンになっていますから」
「あ、そう、がっくり、、」

 スタジオの機材については多少知識ができたのだが、新たな悩みが増えてしまった。フィルムとフィルターだ。加えて、まだ僕の求める、何でもできる万能アシスタントは見つかっていない。撮影まであと数日。
 僕はいよいよ追いつめられたみたいだ。

(つづく)

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2010-06-16 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(24)ファッション・2~~ミミちゃんからの情報

~魚返一真の自伝的小説~

 ミミちゃんは女子大の3年生で遊び盛りだった。一緒に仕事をした後は必ず「何か食べたり、遊んだりしましょうよ~」と言う。僕は年齢を10歳ほど若く偽っていたから、ギャップがすごくて、ミミちゃんのお相手はとても苦手だった。僕が渋っていると「経費だから、、パッと行っちゃいましょよ~。何だったら帰りにお家にお土産も買ってっていいし~」と、当時のライターは多かれ少なかれそうだったが、取材費を完全に私物化している。渋々お遊びについて行くと、ディスコで慣れない踊りを無理強いされたり、芸能人御用達らしい深夜営業の焼き肉屋で体育会系のあんちゃん並みに骨付カルビを食べたり、すでに中年に差しかかっていた僕にはとても辛いものだった。しかし、そんな僕がミミちゃんを食事に誘った。
 
「魚返さん、今日はどうしたの?いつもは仕事が終ったら逃げて帰るというのに、イタメシ食べようなんて、、」
「あはは、、何でもないよ。たまにはお付き合いも大事。ミミちゃんにはお世話になりっぱなしだし、今日はお礼の意味だよ」
「まあ、いいけどさ」

 撮影の帰りにミミちゃんを誘ったのは、例のファッションの撮影の件でちょっと困っていたからだ。ファッションライターの仕事もしている彼女にファッション撮影の全般的なことを教わるのが目的だった。

「さすが有名店だよね、美味しい!すごい!こんなの経費で落ちるのかなあ??」
「大丈夫だよ。半分は僕が自腹でいくからさ」
「そう!ありがとう!じゃあじゃんじゃん食べるぞ~」

 ワインのボトルを空にしてしまったころ、僕は本題を切り出した。

「あのさあ、ロケだけどさ、場所探すの大変じゃない?」
「ロケって、なんのロケ?」
「ファッション撮影のロケだよ」
「まあ、たいていカメラマンが探してくるけど、あたしが探すこともあるよ」
「へえ~、どんなとこで撮っているの?」
「・・・あ、、わかった。魚返さん、困っているんだ?」
「まあ、実はそうなんだよ。いろいろ教えてほしくって、、」
「そんなの、いけないんだ~。企業秘密をやすやすと教えるはずないでしょ!」
「う~、、そうだよね」
「うそだよ~、そんなの企業秘密でも何でもないよ。知らないカメラマンの方が珍しいよ」
「じゃあ、教えてくれる?」
「もちろんいいよ」

 僕はミミちゃんからとても貴重な情報を得た。まず、ロケ場所はミミちゃんの顔がきく青山の花屋さんに決めた。ロケの進行に関することもミミちゃんから聞けたけれど、残念ながら撮影に関するノウハウは何も聞けなかった。考えてみれば当然のことだ、ミミちゃんはカメラマンではないのだから。
 僕はロケは街角でのポートレートの変形だと位置づけた。それなら僕にも少し経験があったし、女の子を可愛く撮るカメラマンだという評判もあったから、乗り切れるだろうと腹をくくった。さて、問題はスタジオだった。スタジオのことを聞ける人を誰も知らないから、結局それもミミちゃんに聞くしかなかった。

「あのぉ~、スタジオなんだけど」
「えっ?スタジオって?まさかその仕事ってスタジオも入っているの?」
「う、うん、、」
「え~、、それで魚返さん、スタジオで仕事したことある?」
「ない」
「まったく?」
「一度もない」
「スタジオのアシスタントの経験とかは?」
「それもない」
「ゲ、、無謀だよ」
「僕もそう思う、、。あっ、一度だけスタジオへ行ったことがあるよ!友達の子供がファミレスのポスターかなんかのモデルに選ばれて、いっしょについて行ったことがあるよ」
「ちょ、ちょっと、、それってただの野次馬じゃん!意味ないよ」
「・・・」
「じゃあ、あたしの知っているスタジオをいくつか紹介するから、そっちへ電話なりしてファッション撮影の経験があるアシスタントを着けてもらえば、、」
「すげえ!それだ!ミミちゃん、頭いいねえ」

 僕はミミちゃんからの情報を参考してにさらに準備をすすめることにした。

つづく


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2010-06-11 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(23)ファッション・1

~魚返一真の自伝的小説~

 プロカメラマンとしてスタートを切って半年が過ぎたころ、いきなりファッションの仕事が来た。編集者が僕のどこを見てファッションも撮れると思ったのかはわからない。懇意のライターがファッションページも担当し始めて、成り行きで僕に仕事を振ったのかもしれない。いずれにしても、とんちんかんなファッションカメラマンの誕生となる。

 まず、女性誌の編集部へ行き、編集者と打ち合せをした。編集者は一流大学出の二十代後半の女性だった。

「今回のページはまたまたコンサバなんですよ」
「はあ、、」僕は一瞬、田舎のお婆ちゃんの言葉を思いだして、心の中でクスクス笑っていた。コンサバ=こん鯖(この鯖の意味)、、僕は何度聞いても『こん鯖』と聞こえてしまう。
「トップスを新しく買って気分一新しながら、ボトムは着回しで、、」
「はあ、、」僕はポッカーンとして聞いていた。
「それで、扉はロケで、あとはスタジオで撮って、ブツはそれが終ったら同じスタジオでやっちゃいましょう」
「なるほど、それが良いでしょう」と答えるしかなかった。
「扉の撮影場所ですが、、ロケハンの方、よろしくお願いします」

 僕は頭がおかしくなりそうだった。編集者の言ってることが何一つわからない。とにかく、何が何だかわからない。何がわからないかと言うと、ファッションにまったく興味がないから、ファッション用語など無知だった。カメラマンとしても、当然だがファッションのロケをやったことがない。さらに、スタジオ撮影などまったくやったことがない。さあ、大変。僕は眠れない日が続いた。
 僕は早く一流カメラマンになって、ファッションの仕事から逃れたいと本気で思った。

 まず最初に『こん鯖』の意味を知らなくてはどうしようもない。打ち合せの帰りに図書館へ寄った。ファッション用語集みたいなものを探したがなかなかない。小さな図書館にはやっと1冊だけ、ファッション用語をおさらいしている本があったが、『こん鯖』は載っていない。どうやら、ファッションの世界はどんどん変化するから、新しい言葉もどんどん出て来るのだろうと思った。このコンサバも最近の言葉だろうと想像した。ちなみに僕が手にしていた本は、昭和50年に出版されたニット関係の本だったので、まあ無理は無理なのだった。
 僕は勇気を出してライターのミミちゃんに電話で尋ねることにした。しかし、あからさまに尋ねて、僕がファッション知識ゼロだと担当編集者にわかったらめんどくさい。僕は慎重に話をすすめた。

「こんにちは、ミミちゃん、元気ですか?」
「先週原宿で会ったばっかりですけど、、」
「そうだった、ミミちゃんって、ファッションの仕事とかやってるよね?」
「まあ、少しだけ」
「最近のファッション雑誌も、何と言うか、うまく言えないけどね、、、あはは」
「魚返さん、何言ってるの?」
「つまり、『こん鯖』だか何だか知らないけど、、」
「コンサバがどうしたの?」
「ミミちゃん、そのコンサバなファッションに興味ある?」
「あたしが?あはは、、魚返さん、私と何度も会っているでしょう?あたしがコンサバなわけないじゃん!」
「僕にはコンサバが『こん鯖』ってお婆ちゃんが言ってるように思えて、可笑しくてさあ、あはは・・・」
「もしかして、魚返さん、コンサバの意味知らないんでしょう?」
「何で、、、!!」
「だって、ついこの前、裏原宿の意味を知らなくて電話して来たじゃん!」
「ああ、そうだったか。実はその通りなんだよ、、、」
「あはは!あはは!それで、16ページも引き受けちゃったの!あははは、、、」
「笑い過ぎだよ、こっちは必死なんだから、傷つくなあ、、」
「はいはい、コンサバというのは『コンサバティブ』の略ですよォ」
「あっ、そうだった、思い出したよ。それってどういう意味だったけ?」
「ほら、知らないんだぁ。コンサバは保守的なファッションなの。お嬢様系なのよ」
「あっはははは、、そうかコンサバはお嬢様系かあ。ありがとう!ところで、僕がコンサバを知らなかったこと誰にも言わないでよ」
「言ったって、誰も信じないよ。そんなファッションカメラマンいるはずないもん」

 つづく、、、

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『突然プロカメラマンになる方法』(22)ポートレート・・・6(アイドル)

~魚返一真の自伝的小説~
 
 アイドルの撮影はポートレートカメラマン必須と言って良い。好むと好まざるにかぎらず、アイドルを撮影する機会が頻繁にやってくる。アイドルと言ってもまったくの新人から、売れっ子までさまざま。当時の僕は、アイドル音痴も甚だしく、振り返るとちょっと恥ずかしい。
 出版社から撮影依頼が来た。売れっ子アイドルらしい。一度に二つの雑誌のグラビアを撮ってしまいたいというのだ。こういうケースは超売れっ子なら時々ある。僕の場合二度ほどあって、もう一人はアイドルではなく、浜ちゃんだった。
 担当編集者との打ち合せで、撮影を依頼されたタレントの名前を聞いても全くわからなかった。写真を見せられても見た事もないタレントだった。ドラマなどで活躍しているらしいが、突っ込んでいろいろ尋ねるのは変だから、ハイハイと適当に返事をしてしまい、あっと言う間に打ち合せが終る。
「さすが魚返さんは撮影も打ち合せも早い!」と編集者に褒められた。

 当日。撮影はドラマの収録の合間に行うことになり、生田のスタジオへ。今回は二種類の撮影をしなくてはならないから、アシスタントを連れて行った。と言っても、映子さんだった。(映子=僕の作品のモデルになってくれた奥様)僕は車で生田に行く途中、映子さんを拾った。映子さんはアシスタントをやったことがない。でも大丈夫。たぶん。

「こんにちは、、急に悪いね」
「いえいえ、こちらこそ。でも私で大丈夫なの?」 
「もちろん大丈夫。それよりお家は?」
「カレー作って来たから家族は適当にやるはずよ。でも、機材の組み立てとかまったくできないけど・・・」
「僕が二人分、いや三人分働くから、映子さんはそばで適当に手伝ってくれればいいよ」
 
 僕が映子さんに手伝いを頼んだ訳は二つ。服装がカッコいい!そして、テキパキ動ける。この二つ。アシスタントは、こういう人が頼りになる。何故なら、すぐに場に溶け込んでコツを憶えるからだ。

「はい、これ見といて、、」と言って僕は運転しながら、今日撮影するタレントの資料を映子さんに渡した。

「わ~、あいちゃんだ!」
「あいちゃんて子、やっぱり売れているんだね」
「魚返さん、この子を知らないで良く仕事できるなあ?」
「そうか、、そんなに有名なんだ」
「とにかく、僕がこの子を知らないことを誰にも言わないようにね。もっとも、僕が知らないって言っても誰も信じないと思うけど、、」
「あはは、私もそう思うワ」

 山道をぐるりと回ると大きな建物が見えて来た。駐車場に車を停めて、カートに機材を積んで建物の中へ入って行った。
 二つの雑誌編集者の二人と二種類の撮影の打ち合せを済ませ、マネージャーと名刺交換。最後にスタイリストと衣装選び。

「あの、今日用意した服は全部で10着ぐらいあります。どれとどれを着てもらいましょうか?」
「そうだね、、、」としばらく考える振りをする。
「映子さん、どう思う?」と映子に聞くと、ただキョトンとしているだけだった。
「あいちゃんは、これとこれがお気に入りらしいですが、、」とスタイリストが言った。
「ああ、そう、、僕もその二つがいいと思う。最初がワンピースで、次はミニスカで行きましょう」

 いざ撮影。一本目をガンガン撮って、三分で終了。その後、衣装とヘアメイクで三十分インターバル。その間に撮影場所と明かりを変更。すでに映子さんはプロのアシスタント顔負けの動き。準備が出来たら、また二本目をガンガン撮って撮影終了。僕と映子さんは、あいちゃんに「お疲れさま」と軽く言って、あとはみんなに挨拶して、さっさとかたずけてをして、生田をバイバイ。

「映子さん、お疲れさまでした。お陰で本当に助かった」
「さすがに、あいちゃんは仕事が出来ますね」
「うん、売れている子は、才能もあるから仕事は楽かもね」
「魚返さん、あいちゃんを知らないなんてね、、」
「まったくわかんない。撮影していても、知らない子撮ってる感じだった」
 
 車が信号で止まった時、、
「ほら、あの等身大の女の子の看板!」と映子さんが指差して言った。
「ほんとだ、さっきの子だね」
 郵便局(?)の前に立っている等身大の看板は、まさしくさっき撮ったあいちゃんだった。


□この章の「あいちゃん」は加藤あいさんです。その節はありがとうございました。
□時代が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2010-03-27 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(21)ポートレート・・・5(正直者は得をする)

~魚返一真の自伝的小説~

 銀座にあるホテルのスイートルームの前まで行くと、三人の女性が僕を待っていた。一人はキャリアウーマン風で彼女が担当編集者。真っ赤なフレームのメガネを掛けたグラマーな女性が呼び屋の担当者。ちょっと地味だが賢そうに茶のスーツを着こなした女性が通訳。カメラバッグ一たったひとつだけ背負って現われた僕を見て、一応に一瞬戸惑った様子だった。ともあれ恐る恐る名刺交換。フイをつかれたのか、三人が同時に僕に名刺を差し出した。(ちなみに、僕は通訳をスカウトしたいと密かに思っていた)

「お・が・え・り・さんですよね、、」と編集者。
「初めまして、魚返です。よろしく!」
「あのぉ、アシスタントの方は?」
「今日はアシスタントは邪魔なので、僕ひとりだけです」
「・・・???」
「大丈夫ですって、この魚返におまかせくださいな。どんと行きましょう!」

 と僕は完全に植木等のノリである。そんな僕を見て三人が完全に引いているのがわかった。でも、僕はそのノリを崩さなかった。そうでないと、今日の大物とはまともに対峙できないからだ。僕はこの世界に入って(営業を初めてから)ずっとバイブルにしている映画がある。大事な出陣の前にはこれを観る。『日本一のホラ吹き男』だ。もちろん、今日も観て来た。

「で、タレントさんはもういらしていますか?」
「いいえ、あと二十分ほどでいらっしゃると思います」と呼び屋。
「タレントさんのあの方、、、」ど忘れ、、、
「はい、W・Sさんですね」と編集者。
「彼はどんな方ですか?」
「とてもフランクな方です」と呼び屋。
「それは良かった!」

 と言いながら<ちっとも良かねえ>と内心思う。外人はみんな、フランクな方ですよ、と紹介されるが、そこがくせ者。フランクすぎて意図と違う写真になったり、フランクそうなのは体型のイメージだけだったりする。それに、仕事でいい加減疲れているから、女性誌相手なんぞに力を入れて対応してくれないこともある。

 僕は2台のコンタックスにRVPを詰めて、一台にはクリップオンストロボを付けた。
 呼び屋の携帯が鳴り「ホテルにお着きになりました、、」とちょっと興奮気味に言う。数分後、W・Sはヘアメイク、スタイリスト、それぞれのアシスタント、マネージャーの五人を引き連れて僕たちの待つスイートルームに入ってきた。

"Nice to meet you"と皆に言って、最後に僕にも"Nice to meet you"と言った。W・Sは想像以上に明るい人で頭の回転もとても早い。つまり、賢い系フランクだ。スタイル抜群。眼は輝いて眩しいぐらいだ。差し出された手に握手した瞬間。僕の中の植木等は完全に消滅してしまった。W・Sのあまりの魅力に圧倒されてしまったのだった。

 そもそも僕はW・Sの仕事を全く知らなかった。彼の出演している映画は一本も観た事がなく、全米NO.1になった彼の音楽も聞いたことがなかった。編集者が僕と打ち合せしなかったのは、W・Sを知らない人間など地球に存在するはずない、ましてや業界で仕事しているカメラマンなら、ということだったのだろう。

 さあ大変。僕はただのモジモジしている良くある日本人、つまり僕自身に戻ってしまったのだった。心配なのは、僕より編集者の方だったろう。いったいどんな写真を撮るの?みたいな顔している。W・Sが切り出した。もちろん、流暢な英語だった。高校時代の英語のリーダーの先生のような、カタカナ英語しか聞き取れない僕には無理だった。キョトンとしていると、すぐに通訳がやって来て。僕に言った。

「W・Sさんは、”私はどのようにしたら良いでしょう、何でもあなたの撮りたい写真にご協力いたします”とおっしゃっています」と英語なまりの日本語で言った。
 僕は開き直った。W・Sがこんなに協力的なら、思いきって自分の今撮りたいことを伝えようと。。。

「W・Sさんに伝えてください」と僕はW・Sを背に通訳の方向に向いて行った。
「はい、通訳します」
「では、、、”僕はあなたの事を知りません。本当に知らないんです。ですから、僕にもあなたの魅力が分かるような写真を撮りたいのです。例えば、バスルームやベッドルームでのいつものあなたを撮らせてください”と伝えてくれますか?」

 通訳は僕を指差したり、奥のベッドルームを指差したりしながら、僕の言ったことをW・Sに通訳した。
 するとW・Sは僕の方を見て、"O.K,Let's go!"と言った。僕は身振りと手振りでそれから10分の撮影に挑んだ。バスルームの鏡の前で撮ったあと、ベッドルームへ。僕はベッドに横になったW・Sをまたいだり(マタギ撮影)、添い寝みたいにしてお互いにウィンクしあったりして撮った。あっと言う間に撮影は終った。撮ったフィルムは4本。撮影中、W・Sは僕がほとんど素人カメラマンだということに気づいていたと思う。だから、彼のプロ意識は<こいつにカッコいい写真を撮らせるためには、オレが引っ張んなきゃだめだ、、>みたいな方向へ強く出ていたと思う。まったくすごヤツだ。
 正直者の僕はこうして、無事に大役を果たせたというわけだ。

 しかし、いつも、<正直者は得をする撮影法>が通じるとはかぎらない。ある日、僕に有名アイドルの撮影依頼が来た。そのアイドルは、日本ではW・Sより知名度があったにもかかわらず、僕は全く知らなかった。今度はちゃんと編集部で打ち合せをしたし、資料も持ち帰ったのに、それでも僕は全く知らなかったのだ。
(つづく)


・この章に出てきた『W・Sさん』とは、Will Smithさんのことです。その節は大変お世話になりました。
・Will Smithさんの撮影で使ったマタギ撮影を後の首相の撮影で使った時、周囲のあきれ顔をよそに、後の首相は「おお、いいぞ、やろうやろう」と言って撮影させてくれた。結局、でき上がったその写真はヤクザみたいだということで却下された。最近町で見る谷垣さんの写真を横にした感じ。
・前回の章で紹介した、ケイ・ディー・ラング氏は先のバンクーバー五輪の開会式で歌を披露していました。

□時代が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。

 

 

2010-03-21 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(20)ポートレート・・・4(速いことはイイことだ)

~魚返一真の自伝的小説~

 雑誌で仕事をしていると、他の雑誌からも仕事が来るようになる。それまで一緒に仕事をしていた編集者やライターが他の雑誌へ移ってそこから仕事をくれたり、懇意にしていたライターが他の出版社へ仕事の領域を増やし、そこの仕事をくれるからだ。また、面識のない編集者から突然仕事が来ることもある。

 そんな仕事の多くは、有名人のインタビュー記事の写真撮影やファッション写真だった。もちろん、僕はファッション写真などまったくやったことがなかった。編集者は僕の仕事を見てファッションも当然やっている(やれる?)と思ったようだ。僕は未だにその理由がわからないでいる。ファッションの仕事についても数々のおかしな経験をしているが、後で書く事にして人物ポートレートの話を続けよう。

 雑誌で経験を積むうちに依頼される仕事の内容が少しずつ変わって来る。初期の頃に多かったショップ取材は少なくなり、有名人の撮影が増える。気がつくと、僕はちょっとした有名人撮影のスペシャリストになっていた。年間に百人ぐらい撮っていたこともある。タレントは多忙なので写真撮影に割ける時間は短いほど喜ばれる。僕はせっかちであっと言う間に仕事を終えるのを理想としていたからとても喜ばれた。喜ばれると知って速く撮っていたのではなく、それが僕の性分だっただけだ。「彼の撮影はエクセレントだね。日本で会った二十人のカメラマンの中で間違いなくベストだよ。何故なら彼が一番速いからね。あっち(欧米)だってこんな速いヤツはそうはいないよ」と言ったのはカナダから来た女性ロックシンガーだった。彼女は僕が撮る前日に日本にやって来て、すでに十九回の取材を受けてたことになる。だからいい加減うんざりしていたと思う。彼女が僕を褒めちぎったとしても、それは単に撮影が速いからというだけで、上手いと言ったわけではないことを付け加えておこう。それでも、その言葉は僕にとってとても自信になった。僕のせっかち撮影術も捨てたもんじゃないと思った。

 そんなある日、ある女性誌から外人大物タレントの撮影の仕事が来た。相手はその当時飛ぶ鳥を落とす勢いの映画スターだった。その女性誌での仕事は初めてで担当の女性編集者とは全く面識がなかったけれど、僕を信用してくれている様子で電話で打ち合せをしただけだった。確かにその頃の僕は著名人の撮影に関してはかなり熟練していたから、撮影に関して担当編集者からすべてを任されることが多かった。しかし、これほどの大物になると編集部まで足を運んで打ち合せをするのが普通だった。よっぽど編集者が僕を高く評価していたか、それとも多忙だったのか、編集者とは当日まで会わずじまいだった。僕はこの仕事もチョチョっとやってしまおうと速撮りを決め込んでいて、アシスタントの女の子が是非ついて行きたいというのを断って、当日はカメラバッグ一つで出かけた。そして、撮影場所のホテルのスイートルームに入って行ったのだが・・・。

■"Excellent! He is the best"と言ってくれたカナダから来たロックシンガーは、ケイ・ディー・ラング氏です。
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2010-02-08 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(19)ポートレート・・・3

~魚返一真の自伝的小説~

 モノクロのページでポートレートを撮るうちに、さらに多くのモノクロ写真を撮りたいと思うようになった。当然だが、それは人物ポートレートでなくてはならなかった。そんなある日、ある編集者から電話があった。彼は若者情報誌の編集者で、僕とは面識がなかった。彼が担当していたのは、著名な作家が悩みある若者たちの人生相談をするページで、毎回その作家の格好良い写真が大きく掲載されていた。もちろん、僕がこのページを営業のターゲットのひとつに上げていたのは言うまでもない。しかし、そのページへの営業はまだだった。なぜなら、業界に入って間もない僕にそんな大それた仕事が来るはずはないと思っていたからだ。ちょっと僕らしくないのだが。。。もっとも、誰も僕の本当のキャリアを知らないから、営業しても誰も大それたことだとは思わなかっただろう。いずれにしても、営業するまでもなく、撮影の仕事を依頼されたのだった。
 そのページはとても人気があった。雑誌をめくると巻頭にあって、ページデザインは平凡だったがとても眼についた。その理由のひとつは、その作家の存在感の大きさにあった。こんな大物作家のポートレートを撮れるんだ、そう思うとものすごく身が引き締まった。撮影日まで一週間しかなく場所は六本木、取材は夜だった。
 僕は撮影予定の若者情報誌のバックナンバーを探し、他のカメラマンが撮った写真を参考にした。なるほど、どのカメラマンが撮った写真もシックにまとめられている。しかし、僕はそれらの写真に何か物足りなさを感じた。カメラマンの主張が足りないと感じたのだ。僕ならもっと良い写真が撮れるのではないかと思った。どうしたら格好良い写真が撮れるだろう。それからあれこれ模索した。僕はまずその作家の小説を何冊か読んだ。それらはどれも僕の苦手なハードボイルド小説だった。
 やっとのことで僕は二つのパターンを考えてみた。一つは、エキストラを使うパターン。作家にエキストラを絡めて偶然性を重視した撮影をする。夜の六本木をエキストラの女を連れ歩く作家の陰影を強調した写真を撮る。もう一つは、暗闇で作家を撮る。それは以前にスケボー青年の撮影の時のように暗闇で何かが起きる可能性を想定して撮る。この2パターンのコンテを描いてみた。すると、暗闇で撮るパターンのコンテはすらすら描けた。僕は暗闇でストロボで撮ることに決めた。
 当日、作家はトレンチコートを格好良く決めていた。撮影を始めるとすぐに作家はタバコに火を点けた。僕はそのタバコの火が消えるまでの三分間が勝負だと思った。僕は撮り続けた。そして撮影はタバコの火が消えるとともに終わった。
 現像を終えてコンタクトを見た。狙い通りの写真が撮れているように見える。ストレートにプリントして大丈夫なカットが1枚と、もう一つ、ちょっとしたアイデアで良くなりそうなカットが1枚あった。しかし、その暗室作業はとても難しそうで、他人に発注しても僕のイメージ通り焼くのは無理だと思った。僕は自宅のキッチン暗室を使って自分でプリントすることにした。そのカットは、あらかじめ撮っておいた六本木の夜景に作家のポートレートを組み入れたものだった。後日、徹夜でやった暗室作業の末、僕は無事にその2カットを編集部に納めることができた。
 僕はストレートに撮れたカットと、暗室作業で手を入れたカットのいずれが採用されるだろうかと編集者の判断を待った。返事は意外なもので、その二枚とも採用された。それぞれを連載二回分に掲載すると決まったのだ。僕は自分の作品が認められたと自信をつけたのだが、そういう調子が良い時にはえてして落とし穴があるものだ。数ヶ月後、自分の未熟さを痛感し、自分の進む道に疑問を持つような事態に直面することになる。

(つづく)

■1993年1月頃だと推測されます。若者情報誌はHot Dog Press で、作家は北方謙三氏です。
□時代が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。

2010-01-11 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 2 :

『突然プロカメラマンになる方法』(18)ポートレート・・・2

~魚返一真の自伝的小説~

 その若者情報誌は隔週発売だった。僕が撮影していたモノクロ連載ページはもう一人のカメラマンと僕の二人がおおよそ交互に撮影を担当していた。僕は少しでも多く撮影を担当する方法はないかと考えていた。そこで思いついたのは、取材対象になりそうな若者を自分で探して編集者の寺本にプッシュしたらどうだろうということだった。さっそく僕は寺本に電話した。

「こんにちは。魚返です。今日はちょっとお尋ねしたいことがありまして」
「はいはい寺本です、いつもお世話になっています。どんなことですか?」
「実は、取材対象になりそうな若者を探すお手伝いをしようと思いまして、、」
「こっちもあちこち手をまわして探しているんですが、なかなか大変でして、、もし魚返さんの方でも探してくれるなら助かります。もし魚返さんが探してくれた若者を取材することが決まったら撮影もお願いします」
 
 寺本から取材できる若者を探したら撮影も担当させてくれる約束をもらった僕はさっそく若者探しを始めたのだった。探し始めると易々とは見つからない。編集者の寺本もそうとう苦労していたことがわかった。雑誌やテレビで紹介されている人物は、その時点ではかなり使い古されたネタだということもわかった。結局僕がこの連載用に推薦した若者はふたりだった。ひとりは、友人の妹。彼女は羊を飼いたくて東京を離れ北海道の牧場で働いている女の子だった。僕と寺本と高見の三人は一路北海道へ取材に向かった。
 もう一人の若者は、世界七大陸最高峰の最年少登頂を目指しているという若者だった。その若者を知ったきっかけは、彼のことを紹介する小さな記事が新聞に載っているのを見たからだ。僕はその新聞社に電話してみた。

「はい。読切新聞でございます」
「すいませんが、今朝の記事についてお尋ねしたいことがあるのですが」
「どのような記事でしょうか」
「七大陸最高峰を最年少で登頂することを目指している若者の記事です」
「はい、では担当部署におつなぎします。少々お待ちください」

「もしもしお待たせしました。記事のついてお尋ねだとか・・・」
「はい。七大陸の最高峰を最年少での登頂を目指している若者の記事の件です」
「ちょっと待ってください。お調べします、、、はいはい、確かに今朝の朝刊にありますね。それでどんなお尋ねですか」
「実はこの若者に興味を持ちまして、取材をしたいと、、」
「なるほど、彼の個人情報を教えるとなると、、、ところでそちら様はどのような媒体の方ですか?」
「申し遅れました。僕はカメラマンの魚返と言いまして、若者雑誌の取材カメラマンをしています」
「えっ、魚返さんというと、あの魚返善雄さんのご関係の方でらっしゃいますか?」
「はい。魚返善雄は僕の叔父です」
「そうですか!私は魚返善雄さんの大ファンなんです。お書きになられた本をたくさん持っています。そうですかあ、、それはそれは、、、」
「僕は叔父とはテレビで見ただけで面識はありません。僕が小学生の頃亡くなりました」
「魚返善雄さんのご関係の方なら問題ないでしょう。記事の若者の情報をお教えしましょう」
「ありがとうございます。助かります」

 何という幸運。僕は、死んだ叔父のおかげで読切新聞から、若者が現在住んでいるという、彼の祖母の家の電話番号を聞くことができたのだった。すぐに彼に電話した。

「もしもし、カメラマンの魚返といいます。読切新聞の記事を見てお電話しています。恐れ入りますが記事の若者とは、、、」
「はい。僕です」
「そうですか。実は、僕は若者情報誌のカメラマンです。この雑誌の連載に『彼らのスタイル』というのがあります。その連載に登場して頂けないかと思って」
「僕なんかで良かったら、取材お受けします」
「ありがとう、では詳細は編集者の寺本に電話させますので、よろしく」

 彼はとても実直な人柄で、何より一途さには驚かされるばかりだった。取材当日、僕の車まで走っ来て車を誘導してくれた姿が印象的だった。写真も日の丸をバックに撮影することを希望するなど、日本へのこだわりを感じさせる青年だった。
 こうして、僕は自分が探した若者を連載に登場させ、その二回分は余計に撮影を担当することができた。モノクロのポートレートに自信をつけた僕は、他の雑誌でもモノクロ撮影をしたいと考えるようになった。

(つづく)

■ここに出て来た七大陸最高峰の登頂を目指していた若者は野口健氏で、その後見事に登頂に成功し有名になった。読切新聞の次に取材したのが僕たちだったこともあって、野口君からはその後も登頂に成功するたびに連絡を頂いた。それから十年後、婦人雑誌の取材で今度は有名になった彼を撮影した。

□時代が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2010-01-03 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(17)ポートレート・・・1

~魚返一真の自伝的小説~

 スケボーの写真は好評だった。
「魚返さん、いや巨匠。スケボーの写真バッチリでしたね。編集部でも評判でしたよ。次回も撮影の方よろしくお願いします。また日程を追って連絡します」と担当編集者の寺本からも報告の電話が来たほど好評だった。しかし、僕は素直に喜べなかった。一ヶ月ほど前に渋谷で街角スカウトの撮影をした後も同じような気分だった。つまり、運良く撮れたけれど自分の力で撮ったと言い切れないことが不満だったのである。
 それでも、モノクロの連載の撮影はずっと続いた。やはり、写真の評判は良かったが、撮影後の空虚な気持ちはずっと同じだった。当時の僕はだただ必死で撮影する以外に何もできなかった。

 それから数ヶ月が経ったある日。寺本から『彼らのスタイル』の4度目の撮影依頼があった。彼の説明によると、取材相手は情報専門誌が主催するフィルムフェスティバルで優勝した映画監督を目指す若者ということだった。僕たちは西武池袋線の大泉学園駅で待ち合わせして、彼がバイトしているという映画会社の撮影所を訪ねた。
 撮影所はさびれている印象だった。映画界に往年の勢いがないことを如実に表していた。そこへ、あちこちペンキで汚れたつなぎを着たナイーブそうな若者がす~っとどこからともなく僕たちの前に現れた。こんな人が将来は映画監督かあ、と僕は不思議な感じがした。僕の映画監督のイメージは黒沢明とか市川崑みたいに超大物だからちょっと拍子抜けした。いつものように編集者の寺本が僕と作家の高見さんを若者に紹介した。

「こんにちは。よろしくお願いします」と若者は小声で言った。
「じゃあ、最初にお話を伺いましょう」と寺本が言った。最初に撮ることが多いけれど、撮るタイミングは人物のやっている事柄によって寺本が直感的に決める。もちろん、その判断に間違いはない。

「ちょうど昼時ですし、お昼でもご一緒しながらお話を伺うというのでどうですか?」
「はい。良いですけど、撮影所の食堂しかないですよ」
「ええ、そこで結構ですよ」
 
 若者に案内されて食堂へ。何と古めかしい食堂だろう。昭和三十年代の造りだった。食堂のおばさんに「カレーしかないよ」と言われて僕たち四人は、妙に黄色いカレーライスを盛った皿と水を入れたプラスチックのグラスの載ったアルミのトレーをテーブル運んだ。彼は静かで実直な若者だったが話の内容はあまり良く覚えていない。僕は食事後の撮影のことで頭がいっぱいだったのだ。撮影はきっとスタジオの中になるだろう。僕としてはカチンコを持った彼がスタジオ内で立っている単純なものがいいと思った。なぜなら、彼には静かな魅力があったから、それを伝える写真が良いと思った。
 インタビューが終わり、撮影スタジオへ移動した。使っていないスタジオは暗い。しかし、僕たちが入って来た天井まである大きな開き戸から射し込む光がとても良かった。光と闇の明暗が古き良き映画全盛時代を懐かしむ雰囲気を作っていた。その明かりの中心へ彼を立たせた。僕はとても気に入って、すぐに撮影した。ただし、カチンコはなかった。寺本がもうワンカット撮っておいた方が良いと言うので、屋根裏へ上がる階段に彼を座らせ、その両脇に映画用の照明器具を入れた写真も撮った。それはそれで一目で映画人らしい写真になっていたが、彼のもつナイーブさを表現するには正面からどんと撮った方が良いと思った。
 後日、写真を編集部に納めた後に寺本が電話があった。階段に座っているカットを使いたいと言うのだ。僕は反対した。正面から撮った方が彼らしいと主張したが、その1枚では彼が映画と関係していることを表ししていないというのだった。僕は本文を読めばわかると言ったが聞き入れてもらえなかった。僕は正面から撮った時、カチンコを持たせなかったことを後悔した。
 編集者として寺本の判断は正しかった。しかし、それが分かったのはそれからだいぶたってからだ。結局、雑誌やコマーシャルでは写真は添え物にすぎない。たとえ、写真が主役に見える使われ方だとしてもだ。その後も自分の撮りたいものを撮ることを心がけたが、サブとして編集者の意図するカットを撮ることにした。結局、そのサブのカットが掲載されることが多かった。
 
 それから十年が経った頃、僕の信念が報われる時が来た。僕は創刊百年を迎えた婦人雑誌の連載の仕事を持っていた。保守的な雑誌だったから写真もそれにふさわしいクオリティが求められていたし、写真の使われ方も大きく丁寧だった。その日の撮影は著名な画家の撮影だった。僕はいつものように、まずはストレートに撮ろうとした。巨大なアトリエの外に広いテラスがあって、そこはうっそうとした木々に覆われて、世田谷とは到底思えない景色があった。そこで撮りたいと無性に思ったのだった。画家とどんと対峙して撮りたい衝動にかられたのだった。画家のアトリエまで来て、目の前にある彼の作品やアトリエを無視して別の場所で撮ろうという僕を編集者の平田さんは許してくれた。彼はいつでも僕の撮りたいカットを撮らせてくれる人だった。

「すいませんが、ベランダの緑を見ていたら、そこへ立っている先生を撮ってみたいと思ったのですが、いかがでしょう」
「・・・ふん」
「だめでしょうか」と僕が言うと、編集者の平田さんが続いてフォローした。
「先生、やはり先生の作品を背景に撮りましょうか・・・」
「いや、ベランダでいいんだよ」
「本当ですか!」僕は小躍りした。
「これまでにいっぱい取材を受け、いっぱい写真を撮られているけどね、日本人のカメラマンはみんな僕の絵を背景に撮りたがるんだ。ニューヨークやパリから取材に来るカメラマンはそんな撮り方はしない。君のように、自分の撮りたいところで撮るんだよ。そのベランダで撮りたがるんだよ。僕をね、、、」
 と巨匠は大きくてまん丸で見たこともないぐらい澄んだ瞳で僕たちに言ったのだった。僕にとってこれ以上の褒め言葉はなかった。

 再び話は1992年にの若者情報誌に戻る。この若者情報誌は隔週発売で、このページの写真は僕ともう一人のカメラマンが交互に担当していた。僕は少しでも多くの撮影をするためにあることを思いついたのだった。

(つづく)

1992年4月頃・決意後九ヶ月ほど経過した頃、、

□ここに出て来た監督を目指す若者は映画監督の矢口史靖氏。画家は横尾忠則氏です。
□2009.12.19にこのブログにアップした、オールガールより1993.12*yuriko、、モデルのyurikoさんは後に矢口史靖さんの映画で衣装のお手伝いをしていたと記憶しています。
□書き方として時系列が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんが楽しんで頂けると嬉しいです。参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2009-12-31 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(16)モノクロ・・・3

~魚返一真の自伝的小説~

 編集者の寺本と作家の高見と別れた僕はすぐに新宿の城之内カラーへ向かった。もちろん、受付の森昌枝に事態を説明して、アドバイスをもらうためだった。しかし、その日は受付がとても混んでいて、なかなか森昌枝と話ができなかった。しかたなく僕は城之内カラーを出て、店のすぐ外の公衆電話から城之内カラーのカウンターへ電話した。

「もしもし、城之内カラーです」
「あっ、すいませんが、森さんをお願いします」
「ちょっとお待ちください」

 僕は相当焦っていた。明日中にモノクロプリントを編集部に納めなくてはならないからだ。家に帰って自分でやる手もあるが、暗室を持たないから、暗くしたキッチンでの作業になる。したがって明朝の夜明けがタイムリミットになってしまう。通常の場合モノクロは、まず最初にフィルムを現像して、そのフィルムの全コマを1枚の印画紙に焼き付ける、いわゆるコンタクト(密着)を作り、それを見てどのカットをプリントするか選ぶ。選んだカットは、様々な暗室テクニックを使って印画紙に露光し、現像、定着、水洗とすすみ最後に乾燥して出来上がり。明朝までやるのは無理だった。しかも、まだフィルムの現像だってこれからなのだから。

「はい、森です」
「魚返です。ほら、このまえフィルムこととか教えておもらった・・・覚えてる?」
「ああ、魚返さんですね。今日は何か?」
「撮影済のモノクロフィルムがあるんだけど、明日中に納めなくちゃなんないんだ。何とかなるかなあ」
「お納めなさるのは、プリントですよね?」
「そう、モノクロプリントなんだ」
「まず、フィルムを現像してコンタクトを作らないといけませんね」
「ああ、そうだね。現像とコンタクトを発注したらどれぐらいの時間でできる?」
「そうですね、、急いでも明日の午後とか、、、」
「それじゃあダメだよ!間に合わない」
「現像だけなら、今日中にできますが、ネガを見てセレクトできないですよね」
「う~ん、出来ない、、、待てよ、使うカットは1カットだけだし、セレクトは可能だけど、、、」

 僕がセレクト可能だと思ったのは、スケボーの葛西くんが一番高いところにいるヤツを選べば良いからだ。36枚撮ったものの、葛西くんが壁に激突した驚きから、シャッターを押し続けていただけで、使うのはそのカットだけだった。

「では、本日中にフィルムを現像して、そのネガを見て1枚だけセレクトしていただいて、そのカットで数パターンのプリントをしたらどうでしょう。プリントは明日の正午にできます。その中で良いものを納品するという感じで、、、」
「いいねえ!それで行こう。ところでフィフムの現像は何時間で出来る?」
「至急便でやらせれば3時間ぐらいです。9時にはプリントを工場へ発注したいので、6時には当社のカウンターまで持って来て頂ければ大丈夫です。と言っても、あと二十分しかありませんが、、」
「よっしゃ!」
 
 僕は電話ボックスを飛び出して城之内カラーのドアを開け、客たちをかき分け森昌枝のいるカウンターの上にモノクロフィルムのトライXを1本置いた。まだ僕との応対中だった森昌枝はまだ電話の受話器を耳にあてたままだった。

「あら、魚返さん、、、」
「そう、外にいたんだよ。それより、早くこれを工場へ届けて」
「わかりました。すぐにやります。お仕事大丈夫そうで良かったですね」
「ああ、ちゃんと写っていればね・・・」
  
 三時間後、現像済のネガフィルムを見ると、かっこ良く宙に浮いた葛西くんがばっちり写っていた。僕は葛西くんが一番高い位置まで上がったカットを選んで、三種類のプリントを注文した。翌日の午後、僕は三種類のうちの1枚を無事に編集部へ写真を納めることができたのだった。最初の仕事で結果を出すことができたのは運が良かったからだと思う。ウメ屋の浜地君のアドバイスどおりのストロボを買ったことも大正解だったし、城之内カラーの森昌枝の機転にも助けられた。
 こうして僕は念願だったモノクロの連載の仕事をもらうことに成功した。今でもこの撮影のことを思い出すたびに冷や汗が出る。良くもまあ、こんな綱渡りをしたものだと思うけれど、誰にも習った経験のない僕にはそうするしか方法がなかったし、この先もずっとぎりぎりの撮影をして行くことになるのだった。
(つづく)

1991年11月頃・決意後四ヶ月ほど経過した頃、、

□書き方として時間が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんの参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2009-12-27 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 2 :

『突然プロカメラマンになる方法』(15)モノクロ・・・2

~魚返一真の自伝的小説~

 室内で動くものを撮る。つまり、ストロボ撮影は避けられない。コンタックスRTS3は秒間5コマの撮影が可能だが、それに対応する数だけ発光できるストロボはあるのだろうか。僕はウメ屋へ行った。もちろん浜地くんにアドバイスをもらうためだ。

「あのさあ、、スケボーの兄ちゃんが空中に浮かんでいるところを秒間5コマでストロボ発光させて撮りたいんだよ。そんなストロボある?」
「ありますよ。ちょっとでかいですが、、」と言ってショーウィンドーから運動会のリレーのバトンの先に大きな電球をくっつけたような、そんなかっこ悪いストロボを出して来た。
「ぎゃ~、それなの?ひどいデザインだねえ」
「でも、これならお客様のおっしゃる用途で結果を出してくれると思います」
「それにしても・・・」
「お客様は、撮影結果が一番大切なのではありませんか」
「そうだけど、、じゃあそれにするか。幾ら?」
「6万円です」
「ゲッ、高い!」
「そうなんですよ。コンタックスは何でも高いんです」
「・・・」
「他社のもので代用できないことはありませんが、万が一という場合を考えるとおやめになった方が良いかと」
「じゃあ、それにするよ」
「あの、もう一つ悪いことが、、ストロボ本体とは別にバッテリーパックが必要なんです。それがないと充電が間に合わず秒間5コマで発光できない可能性があるんです。もちろん、お客様が明るい絞りでお撮りになるなら大丈夫ですが、おそらくその撮影だとF5.6は最低でも欲しいですよね。そうでないとピントが心配ですね。フィルムをISO400のトライXを使うとしてもF5.6で秒間5コマ発光するにはどうしても別売のバッテリーパックが必要ですねえ、、、」と言って浜地が出したのは黒い弁当箱に肩掛け紐を付けたようなえげつないものだった。

「でかいストロボをカメラにくっつけた上に、さらにこんな箱を肩からぶら下げて撮影するの?」
「はい、そうなります」

 僕はそのバカ高くてかっこ悪いストロボを買った。様々な状況を考慮すると、ISO400のフィルムの場合、シャッター速度125分の1で発光させて、絞りは5.6だ。僕は何度も何度もテストした。と言っても、畳の部屋に寝転がって枕を投げてそれをフィルムの入っていないカメラで撮るという程度。

 取材当日、僕はスケボー場の前で初めて編集者の寺本と作家の高見直樹さんに会った。

「やあやあ寺本です。巨匠!バッチリお願いしますよ。こちらが作家の高見さん」
「高見です。よろしく」
「魚返です。どうぞよろしくお願いします。なにせ、こういうのは初めてなもんで、どうなることやら」
「あはは、ご冗談を、、モノクロの巨匠。噂は聞いていますよ。お上手なんでしょ?」と寺本が囃し立てた。
「本当に、本当に、こんな撮影初めてなんで手が震えています」
「またまた、、面白いこと言って・・・」と寺本は上機嫌だった。つまり、僕が不安がっているのを、余裕で冗談を言っていると勘違いしているのだ。
「あの、高見さん、お仕事をご一緒できる最初で最後になるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「あはは、またまた巨匠ったら、、ご冗談を」

 スケボー場は体育館の中にあった。暗い。ここは競技場ではないから、明るく華やかである必要はないのだろう。真ん中にバンクがあった。バンクをすべり上がったところを撮ればいい。それなら何とかなりそうだった。若いスケボープレーヤーの葛西と初対面の挨拶をした。ここでも寺本は僕のことを巨匠と紹介した。

「最初に撮っちゃいますか。彼の演技を見てからインタビューをした方がいいでしょう。どうですか、高見さん」
「そうだね、その方が話が聞きやすいかもね」
「じゃあ、巨匠。お願いします」
 寺本は一人でどんどん話を進めた。さすがにベテラン編集者はぬかりがない。
「じゃあ、バンクを上がっているところを撮りましょう」と僕が想定した撮影に持ち込もうとした時、、、
「あのォ、、僕は大技をやりたいんですが」と葛西が余計なことを言った。
「大技!それそれ、それですよ。大技をお願いしちゃいましょう」と寺本が同調した。僕はずっとバンクで撮ることしかイメージしていないからそれ以外のパターンは遠慮願いたかったのだが。
「大技は、そっちの上りのスロープから飛んで下りのスロープに着地するものです」
「いいねえ。巨匠、それで行っちゃいましょうよ。高見さんはどう思いますか」
「空中に飛んでる葛西くんが撮れたら最高だね」
「決まり!」

 上りのスロープと下りのスロープの間は5メートルほど空いていて高さは2メートル。どうやら僕はその空いたスペースでカメラを構えることになる。猛スピードで飛ぶ葛西にピントなんて合わせている暇はないだろう。僕は置きピンで行くことにした。プラナー50mmの焦点距離を3メートルに合わせ、ストロボのスイッチを入れた。

「じゃあ、いきなり本番行ってみよう!」と寺本が大声で言った。僕はカメラを構えた。葛西は体育館の一番端っこから勢いをつけてスロープに入った。そして飛んだ。僕は夢中でシャッターを押し続けた。シャシャシャシャシャ、、、、。葛西は僕の真上を通過した。ファインダーの中の葛西はまるでムササビのようだった。そして一瞬僕と眼が合った。つまり葛西はレンズの方を見た。僕はむかしアサカメで見た動物写真家の宮崎学の撮ったムササビの写真を思い出した。その写真は僕の憧れだったから良く覚えているが、闇夜を飛ぶムササビをストロボを発光させて撮ったものだった。
「ああ!」寺本と高見が声を上げた。僕は一瞬何が起こったか分からないままフイルムが終わるまで7秒間シャッターを押し続けていた。葛西が空中でカメラ目線を演じた瞬間に何らかの誤算が生じたのだろう。葛西は下りのスロープに達せず壁に激突したのだった。

「葛西くん、大丈夫?」と寺本が倒れた葛西に駆け寄った。
「ええ、まあ」葛西はかなり痛そうだった。
「じゃあ、演技は中止してインタビューにしましょうか」
 幸い葛西の怪我は軽かった。しかし、もう一度滑れる状態でもなかった。
「でも、撮影がまだ・・・」
「大丈夫ですよ、本日のカメラマンは巨匠ですから!一発で決まってますよ」

 結局、撮影はその7秒間だけで終わった。インタビューが終わった帰り道。
「さすが巨匠。あれを決めるんだから・・・」と寺本は撮れていると信じきっている。
「あのォ、撮れていないかもですよ」
「あはは、巨匠は冗談がお好きです」
 開き直った僕は冗談(?)を連発した。もうそれしかなかった。
「実は僕はカメラマンになってまだ四ヶ月なんですよ」
「あはは、巨匠、ご冗談を・・・」
「このカメラも60回ローンで買ったばかりなんですよ」
「またまた、巨匠、ご冗談を・・・」
「ストロボなんてのは先週ウメ屋で買って使い方を店員に習ったばかりですよ」
「はいはい巨匠、わかりましたよ、高見さん、魚返巨匠の印象はどうですか?」
「取材が楽しくなっちゃいます。ちゃんと撮れていれば、これから先ずっと巨匠にお願いしてもいい感じですねぇ」
「とにかく巨匠。上がりを楽しみにしてますよ」
「それで、納期は何時ですか?」
「明日の夕方でどうですか?」
 一瞬凍り付いた。明日?一週間はあると思っていた。ゆっくりプリントをやれば良いと思っていたのに・・・。しかもちゃんと撮れているかさえ分からない。あ~憂鬱。

(つづく)

1991年11月頃・決意後四ヶ月ほど経過した頃、、

□書き方として時間が前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんの参考になると嬉しいです。(なるはずない?)でも拍手をお願いします。
2009-12-21 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(14)モノクロ・・・1

~魚返一真の自伝的小説~

 僕が少年の頃撮っていたのはほとんどモノクロ写真だったから、雑誌でも人物のモノクロ写真を大きく使っているページが気になっていた。仕事で編集者に会うたびに、モノクロ写真をやりたいと口にした。すると、チャンスは意外に早くやってきた。大手出版の男性情報誌の編集者の寺本から電話があった。
「初めまして、寺本と言います。撮影をお願いします。巻頭の『彼らのスタイル』という連載の写真です」
「はい!ありがとうございます」
 僕が最もやりたいと思っていたものの一つだったので驚いたし、とてもうれしかった。そのページは、大きめの写真1枚と作家の文章からなる単純な構成で、タイトルは『彼らのスタイル』。ちょっと変わった生き方をしている若者を2ページで紹介していた。


「インタビューと撮影を同じ日にやります」
「それで、撮影するのはどんな人物ですか?」
「今回はスケボーのプロを目指している若者です。どんな写真にするかは魚返さんにお任せします。いずれにしても当日現場で考えてください」
「はい、わかりました。たしかこのページはモノクロ写真だと思ったのですが」
「はい、そうです。かっこ良くばっちり決まったモノクロでお願いします」
「モノクロには自信があるのでやりがいがあります。ところで寺本さんはどうして僕にこの仕事をくださったのですか?」
「例の女の子班の編集者から魚返さんはモノクロが得意だと聞いたもので・・・」
「そうですか、ありがとうございます。きっと良い写真を撮ってみせます」
「期待していますよ」

 電話を切ったあと、うれしくて飛び上がった。モノクロが得意だと口にして来たのが実を結んだ。得意と言っても、中学の時にSLの写真を焼いた程度の経験しかなかったのだが・・。モノクロの仕事を受けた時のために、自分でモノクロの焼付け作業を始めていたが、マンションの台所に引き延ばし機を出して、夜中にちょちょっとやっていた程度ではクオリティは低かった。
 スケボーの若者が被写体だというのも問題。スケボーを持って笑っているようなありふれた写真など撮っても次の仕事はないだろうと思った。自分にとっては大きなチャンスだ。しかし、結果が悪ければこの雑誌からはさよなら。この仕事は最初で最後のつもりで臨まなければならない。
 翌日、編集者の寺本から電話があった。取材は一週間後でインタビュアーは作家の高見直樹さんとのことだった。また会場は江東区にあるスケボー場。どうも屋内のようだった。僕はいよいよ焦って来たと同時にはやる気持ちも湧いて来た。
 頭の中はスケボーのことでいっぱいになった。実は一度だけスケボーを経験したことがある。
 1980年頃、僕は毎年のように伊豆七島の式根島という小さな島でバイトしていた。真夏はもちろん、夏の商売の準備のために梅雨前から行っていたこともあった。ディスコが流行ればディスコ会場を作り、ペンションが流行ればシチリア風のペンションを建てた。そのペンションのらせん階段やトイレやベランダの手すりなど僕が作った。鉄筋も長い鉄の棒を切ったり曲げたりして作って組んだ。もちろん僕一人で作ったのではないが、実際に僕が作ったとはっきり言える場所も多くあった。夏になって島に客がたくさん押し掛けてきてディズコもペンションも大にぎわい。三階建てのペンションの屋上はビヤガーデンになった。酔っぱらった客が屋上の手すりに寄りかかるたびに、僕は心臓がバクバクした。「手すりよ、お願いだから持ちこたえてくれ、、、」それから十数年経ったある日、伊豆七島が大きな地震に見舞われた。新聞記事によると、式根島の被害は立入禁止になった建物が一軒、とあった。なんとその建物とは僕たちが建てた三階建てのシチリア風ペンションだったのだ。
 ある年の夏、僕は式根島にスケボーのバンクを作った。正確に言えば、スケボーのバンクではなく、ローラースケートのバンクだった。いざ営業を開始すると、スケボーの客とローラーの客が入り乱れた。スケボーの上手い若者が来てバンクをかっこ良く滑った。彼が僕たちに言った言葉を思い出した。
「もっとでかいバンクを作ってくださいよ、そしたら勢いがつくからバンクが途切れても体はさらに上まで上がってカッコいいんだよ」
 僕はそれを撮りたいと思った。若者がスケボーといっしょに空中に浮いているところ、、。ちなみに、僕は自分たちが作ったスケボーのバンクでスケボー初体験した。鈍い僕はもちろん転んであちこち擦りむいた。

(つづく)

1991年11月頃・決意後四ヶ月ほど経過した頃、、

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2009-12-16 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(13)二人の先生・その2/カメラ

~魚返一真の自伝的小説~

 プロカメラマンになると決めた時、僕の手元にあったのは、EOS650(28mm~70mm付)とペンタックスSP(50mm付)の2台。EOS650はご存知のとおりとてもプロ仕様とは言えないカメラだったし、しかもズームレンズ1本しかない。ペンタックスSPは親父からもらったカメラで、昭和42年頃のしろもの。つまり僕はカメラを持っていないに等しい状況だった。仕事の営業と同時にカメラのことも考えなくてはならない。いや、むしろこっちの方が切実だったかもしれない。僕はどの機種にするか迷い続けた。

 いつものように僕は新宿の紀伊国屋のカメラ関係の書籍売場にいた。いまでこそ書店に溢れているカメラのマニュアル本も1991年当時はまったく充実しておらず、一応プロも学べそうな内容が書かれた本などは、いったいいつ刊行されたんだろうと思うほど古く、わかりにくいものが多かった。それを僕は片っ端から立読みしたのだった。それでも、良く分からなかった。ピンと来ない。やはり実際に撮らなきゃわからないんだと感じていた。同時に進めていた営業が意外に上手く行っていたこともあり、ちょっと不安になっていた。紀伊国屋で立ち読みしたあとは、アルタの裏手にある桂花でラーメンを食べて、そのあと新宿通りにあるカメラ量販店のウメ屋の二階カメラ売場へ行くのがお決まりのコースになっていた。紀伊国屋で立ち読みした内容を思い出しながらカメラ店の店内をうろつくのである。余談だが、1991年当時はまだラーメンブームなるものはなく、紀伊国屋にラーメン屋のガイドブックがなかったのが残念。だから桂花ラーメン以外食べた記憶がない。

 いよいよ機種選択を迫られた。営業がうまく行ったからだ。意を決してウメ屋のカメラ売場へ。そして、ある男と出会うことになる。

「あの~、ちょっといいですか」
「はい。なんでしょうか」
「カメラを一揃い買いたいんです」
「一揃いといいますと?」
「プロカメラマンが持っている機材全部です」
「は、はい。と言いますと、お客様はプロの方ですか?」
「えっと、これからと言うか、まあそんな感じで」
「かしこまりました。機種はお決まりですか」
「それがまだなんですよ」
「・・・・」
「と言っても、ニコンかキャノンか。それともコンタックスか迷っているんだよ」
「なるほど、プロ仕様としてアイテムが揃っているのはニコンとキャノンですね。コンタックスはレンズが売りですが、それほど使っているプロは多くないですね」
 僕は使っているプロが少ないというところが気に入った。
「コンタックスにするよ」
「でも、お客さん、、コンタックスはニコンやキャノンに比べて高いですよ」
「コンタックスにするよ」
「わかりました。ボディーはRTS3型で良いでしょうか。35万円の15%引きで」
「いいよ」
「レンズはとりあえず、25mm、35mm、50mm、60mmマクロ、85mmの5本。ストロボと予備のボディーに167MT。あとは・・・・全部で70万円ですね」
「全部分割でお願いします」
「あ、はい」
「あと、悪いんだけど、簡単な使い方というか、何かアドバイスください」
「あは?」
「実は明後日から長野に取材に行くもんで、、」
「お客様、大丈夫ですか?何かあったら僕に電話ください。少しならアドバイスできると思います」
「ありがとう!」

 彼の名前は浜地君。中背でやせ形でテクノカット。ウメ屋の社員ではなく、ミノルタから出向しているとのことだった。なるほど、量販店の店頭には多くの店員がひしめいているが、大半はメーカーからの出向だとわかった。それからというもの、新しい仕事の度に浜地君を尋ね、使い方や撮り方を全部教えてもらった。もちろん、取材先の長野からも毎日のように浜地君に電話して撮り方を教わった。こうして僕は城之内カラーの森昌枝につづいて、浜地君を二番目の先生にしたのだった。

1991年8月頃・決意後一ヶ月ほど経過した時点、、

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2009-11-25 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(12)二人の先生・その1/フィルム

~魚返一真の自伝的小説~

 僕がプロカメラマンになった時、機材をほとんど持っていなかった。編集部から仕事をもらった時にその仕事に必要なものを買いそろえるという究極の自転車創業。それも全部分割払いだった。とにかく業界のこともカメラのことも何が何だかわからなかったというのが本当のところ。しかし、何にも知らないというのは武器でもあることがわかった。見るものすべてが新鮮で、どんどん吸収する。それこそ、ひとつ吸収するたびにキュンと音がするほどだった。こんな気持はこどもの頃、ビー玉やパッチン(めんことも言う)に夢中になって、様々な工夫をした時以来かもしれない。

 フイルムのことがまったくわからなかった。特に雑誌ではほとんどすべてがポジ(スライド)フイルムだったけれど、僕はほとんど使ったことがなかった。ある日、新宿御苑にあるプロラボ・城之内カラーで受付の女の子と運命的に出会ったのだった。名前は森昌枝。

 ある日、僕は城之内カラーのビュアーの前で呆然と立っていた。前日撮ったカツ丼の写真をミスってしまったのだ。露出不足で、カツ丼の中身がまるでウ◯チのように写っているのだった。僕は泣く泣くそれを持って編集部へ行った。幸い(?)担当編集者は留守だったので、一番ウ◯チに見えにくいカットを切って、彼の机の上に置いて、逃げて帰ったのだった。帰る途中、この雑誌とおさらばしても仕方ないけど、これからもずっとこんな写真では困ると悩んだ。僕は何故か城之内カラーの方へ足が向いたのだった。とりあえず、いくつかの種類のフィルムをテストしてみようと思ったのか、、本当はただボーっとして歩いていたら城之内カラーの店の前までやって来たのだっただけだったのかも。

 店の中に入った時「いらっしゃいませ」と迎えてくれた女の子の明るい声に誘われるようにカウンター越しに彼女の前に立った。ロングヘアで長身色白の子。一重まぶたの眼がいい。
「ご用件は?」
「あのぉ、、、フィルムを」
「どんなフィルムでしょうか」
「そこんとこ、ちょっと相談。。実はカツ丼を撮ったらウ◯チみたに写ってしまって」
「フフフ、、ご冗談を・・・」
「本当なんですよ。なんでそんなことになったのか・・・」
「ところで、フィルムは何をお使いになりましたか?」
「ベルビアです」
「RVPですね」
「はあ?」
「R・V・Pですよね。富士フィルムさんの」
「あ、あ、そっ、そうそう、富士のRVPですよ。もちろん」
 業界ではフィルムをパッケージに書かれているブランド名で呼ぶのが通例だということもこの時初めて知った。ベルビア=RVP,エクタクローム100=EPPなどなど。
「それで、今回お客様がお撮りになるものはどんなものでしょうか」
「まあ、カツ丼かな、、いや、牛丼の可能性もあるよ」
「でしたら、EPPがおすすめです。他のカメラマンさんも比較的コントラストの低いEPPをお使いのようです」

 僕は頭を殴られたような気分だった。つまり初心者の誤解だ。フィルムはコントラスト豊かな方が良く撮れる、、みたいな。車でいうとエンジンの馬力、デジカメで言うと画素数などの数字がでかいほど良いと考えてしまうのと同じ。つまりRVPはコントラストが強いことで売れまくったフィルムだったのだ。

「そうか、コントラストが強すぎてウ◯チに写った!」
「あのぉ、お客様、、ウ◯チみたいに写ったのは、もしかして本当だったんですね」
「そう、本当だよ」
「ふふふふ、、すいません、ふふふふ、あっ、ごめんなさい、ふふふふ」
「笑ってください。いくらでもどうぞ、、僕は泣きたいんですよ。今度カツ丼を撮る時はちゃんとカツ丼に写るフィルムを使いたいね。せめて、親子丼なら許せる」
「では、やはりEPPをおすすめします」

 それからと言うもの、馬鹿のひとつ憶えでEPPを使い続けた。その結果、前回まで書いた渋谷での女の子スカウト写真の成功につながったのである。付け加えると、RVPなどポジフィルムには実効感度というのがあって、ISO100とあっても実際は64だったり、50だったりする。レンズとの相性でも感度が違うのだ。ウ◯チが写ったRVPは後に気づいたけれど、プラナーでは実効25しかないようだ。したがって、思った以上に暗く写る。
 こうして城之内カラーの森昌枝は僕のフィルムの先生になった。

1991年10月頃・決意後三ヶ月ほど経過

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2009-11-23 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(11)ポートレート撮影初体験・その3

~魚返一真の自伝的小説~

 それから一ヶ月後、僕たちが二日間にわたって渋谷の街頭でスカウトした女の子たちが誌面を飾った雑誌が発売された。表紙は飛ぶ鳥を落とす人気アイドルユニットのC.C.ガールズ。いつものように、僕はコンビニの店頭で立ち読みすることにした。パラパラとページをめくっていくとメイン特集はあの女の子特集で、その中間に街頭でスカウトした女の子たちのポートレートが載っている。女の子の数が多いせいかとても豪華なページに仕上がっていた。写真のサイズが思ったより大きめだったせいで、それぞれの写真のクオリティがはっきりわかった。ページを開いた時、パッと華やかな印象を与えるためには、一枚一枚の写真の質が大事なことがわかる。ちょっとでも画質の落ちる写真を掲載するとそのページの印象が悪いのには驚いた。どうせちっちゃい写真だから、と手を抜いてはいけないことがわかった。この経験が僕のその後の撮影にとても役にたった。
 僕は特集を見ながらちょっと驚いていた。僕が撮った女の子のほとんどが掲載されていたからだ。ライターの清家さんが、こんなにたくさんスカウトしても掲載されるのは半分もないと言っていたのを思い出した。自分の撮った写真が多数掲載されたことは写真の良さが少しは評価されたんだと嬉しかった。もちろん、スカウトした女の子たちのクオリティが編集部の求めるテイストに沿っていたこともあるだろう。しかしちょっと待てよ、僕が選んだ地味系だけど写真ではきらきら光る女の子もみんな掲載されているではないか。僕はそのことがとても嬉しかった。
 女の子特集を掲載した号は、雑誌創刊以来最高の売上部数を記録し、すべて店頭から消えたのだった。直後、編集部を訪れると、僕を女の子班に紹介した編集者に声を掛けられた。

「魚返さん、女の子の写真とても良かったですよ」
「はあ、初めてだったもので・・・」
「そんな謙遜して、冗談でしょう。紹介した編集者も喜んでいましたよ」
「あ、そうですか、それは良かったです」
「また、お願いします」

 僕はぽっかーんとしてしまった。何であの程度の写真で評価してもらえたんだろうという疑問が湧いて来た。僕は編集部にあったC.C.ガールズ表紙の女の子特集の載った号を1冊もらって帰って、家でじっくり見てみた。確かに、僕が撮った写真は他のカメラマンが撮ったものに比べて違いがある。原因は、僕が女の子を撮るのが初めてで、他のカメラマンと違う撮り方をしていたからだろうと思った。こまめなロケハンが生きていた。それから僕が50mmの標準レンズで撮ったことも大きい。他のカメラマンがみんな85mm程度の中望遠を使っていたが、やはり僕の想定どおり苦戦したのかもしれない。フィルム選びも重要だと思った。僕はエクタクローム(EPP)を使っていた。このフィルムは落ち着きがあって扱いやすいことをプロラボの受付のお姉さんに聞いて知っていたのだ。
 それから二ヶ月後、ギャラが僕の口座に降り込まれた。その額を見てびっくりした。二日間の日当にしては多過ぎるのだ。カメラマンのギャラは日当と掲載カットによって支払われるケースがある。今回はどうなんだろうと思っていた矢先、ライターの清家さんから電話が来た。

「清家です。先日はどうも。。」
「やあ、清家さん、ちょっと聞きたいんだけど、3ヶ月ぐらい前に渋谷で女の子をスカウトして写真撮ったよね」
「はいっ、あの時はおつかれさまでした」
「あの時のギャラだけど、どういう計算で支払われているの?」
「あれはですね、出来高払いですぅ。魚返さんはたぶんギャラいっぱいだけどぉ、少ないカメラマンさんもいます。日当にもならない人もいるし、中にはギャラなしってカメラマンも何人かいたんですよ」
「あっ、そうなんだ。ありがとう」
「で、用件ですね・・・」
「・・・」

 僕はびっくりした。僕がもらった額は◯十万円。さらにボーナスが十万円。驚きを通り越してしまった。売れている雑誌というのはこんなにギャラが高いのか、と思いきや、ボーナスは良しとしても、そもそもカメラマンに支払われる総額が決まっていて、それを多くのカメラマンが奪い合ったのか、、甘くないなと思った。その逆もあるだろうと想像したからだ。つまり、次ぎは僕が辛酸をなめるようなギャラになるかもしれない。それ以後そういう仕事をしたことがないのは幸いだったかもしれない。あの二日間の僕の撮影には多くの幸運があったと思う。僕は所詮ド素人のカメラマン。もう一回やったら、結果は逆かもしれないと素直に思い、それからの撮影にはそれまで以上に熱意をもってやれたことは、この経験があるからだ。
 この二日間の撮影は、僕の写真家としての活動に大きな道しるべを与えてくれたし、振り返れば、女の子や人物撮影のスペシャリストとしての第一歩だった。何はともあれ神様に感謝したい。

(つづく)

□書き方として前後することもあります。今後も僕の経験を書いていきます。皆さんの参考になると嬉しいです。拍手をお願いします。
2009-11-07 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(10)ポートレート撮影初体験・その2

~魚返一真の自伝的小説~

 カメラ屋へ走った。買いたいものはわかっているが商品名がわからなかった。僕は店に入るなり店員に尋ねた。

「すいません。あのぉ~、白くて折りたたみ式で、光を反射させる・・・」
「ああ、レフ板ですね」
「あ、そのレフ版をください」

 レフ板とは、光を反射させるもので、特に人物撮影の場合効果が顕著で顔などに当てると美しい。
 僕はそれまでレフ板を使ったことがなかった。それも当然のこと、僕は女の子を撮ったことがないのだから。80センチ×100センチの大きさで、周囲の枠が金属の棒で出来ている折りたたみレフ版セットを買って、公園通りで待っているライターの清家さんとバイトの中嶋君のところへ走って戻った。
 ビニールに入った新品のレフを出して歩道で組み立てると、表は銀、裏は白だった。どう使うのかさっぱりわからない。他のカメラマンはどうしているのか見たかったがみんなあちこち散ってしまって周囲にはいない。まあ、光の問題だからスカウトが成功して、いざ撮影というときに女の子の顔に光をあてて判断しようと決めた。
 それからレンズに不安があった。集まったカメラマンはほとんど85mmなど中望遠をカメラに付けていたのだが、僕はその日50mm一本で行こうと思っていたから、他のレンズを持っていなかった。僕は、まあ何とかなるだろう、と思ったし、そもそも僕は応援だから期待されていないからダメでも問題ないだろうとも考えて、気楽にいくことにした。

「清家さん、いったいどんな女の子をスカウトするの?」
「うちの雑誌の読者が好む女の子です」
「可愛ければいいんじゃないの?」
「もちろん、そうですけどぉ、それほど可愛くなくても、うちの読者の好みに合ってれば、、、ちなみに編集から、フレアミニスカートの女の子は多めにチェックして欲しいと言われました」
「でも、さっき僕が撮るように指示されたのは、バストショットよりちょい広めってことだから、スカートは写らないけどね」
「そうですね、、でも、フレアミニの子は読者の好みもばっちりなんで、、、」

 僕はしゃくぜんとしなかったけど、清家さんがきっぱりと答えたので、きっと何かあるんだろうと思って、しばらく成りゆきを見守った。「あっ、あの子、ほらフレアミニだ」と言うと清家さんは女の子にアプローチした。話がまとまったらしく、清家さんが女の子を連れて僕たちの方へ来た。
 女の子をあらかじめ決めておいた場所に立たせた。逆光で髪が金色のシルエットになってきれいだった。中嶋君に正面からレフを当てさせた。右を向かせたり左を向かせたりさせながらシャッターを切った。女の子は緊張していて、笑顔は引きつりっぱなしだった。僕は「無理して笑わなくてもいいよ」と女の子に言った。わざとらしい表情は極力捨てて、自然な表情を撮ることにした。たまにギャグを入れて笑ってもらったりもしたが、基本は素顔を撮ることに徹した。こうして最初の女の子はすんなり撮れたのだが、その後はそううまくは行かなかった。
 休日の公園通り、、可愛い子なんていくらでもいそうなものだが、じっくり見るとそれほどいない。みんな上手に化けているのだ。やっと見つけても、スカウトできる確率は非常に低い。僕はスカウトが難しいことがとても意外だった。僕たちは昼食抜きで、午後4時ぐらいまでスカウトをし続け、やっと10人ほど撮影にこぎつけたのだった。

 二日目。僕は昨日と同じ場所では撮りたくないなと思ったので、ロケハンをしてちょとした場所をいくつか探しておいた。さらに,同じ場所では二人以上撮らないと決めた。それから昨日と同じ50mmで勝負することにした。街頭での撮影では、モデルとの距離を取りにくいのと、雑踏ではちょっとでも離れるとモデルとコミニュケーションも取りにくいので、中望遠より標準の方が良いなと、前日の撮影でちょっと学んでいた。しかも、今日は曇りで午後からは雨の予報たったから、ビルの谷間はかなり暗くなる。したがって露出の心配もあったから、50mmで解放での撮影を心にとめておけばちょっと安心でもあった。

 一日目よりスカウトは順調だったので、時々僕も口をはさんだ。

「清家さん、あの子、だめなの?」
「魚返さん、地味すぎますよ」
「そうかな、あの子、きっと写真ではキラキラするよ」
「じゃあ、ちょっとやってみますか」

 清家さんはしぶしぶ声をかけた。女の子は案外すんなりと撮影を了承してくれた。カメラを向けると、何だか恥ずかしそうに微笑んだ。僕はその瞬間連写した。

「魚返さん、あの子、なかなか良かったですねぇ。ウチの雑誌っぽくはないけど、可愛かったですぅ」
「そうでしょう。ああいう子って街に埋没しているんだよ」
「なるほど、じゃあ、またああいう地味で何とかなりそうな女の子がいたら教えてください。行きますから!」

 結局、二日で20人撮った。その中に僕が薦めた地味系の女の子が五六人いた。雨が降り出したし、そろそろやめようかと相談していると、他のチームの女の子のライターが僕たちの様子をうかがいにやってきた。

「清家さん、どう?女の子捕まったの」
「まあまあ、かな」
「こっちは二日で10人だけど、清家さんとこは何人?」
「二十人だよ」
「えっ、そんなに撮れたの?」
「二十人でも少ないと思っていたけど、、これって多いの?」
「多いよ、他のチームにも聞いたけど、最高で15人で、ひどいところは二日で五人とかだよ」

 僕と清家さんと中嶋君の応援チームは、案外好成績を上げていたようだが、はたして本当にそうだったのだろうか。つまり、雑誌に掲載される女の子の数が問題なのだった。

(つづく)

□まだまだつづきます。どんどん佳境に入ってい行きます。拍手をお願いします!
2009-11-04 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(9)ポートレート撮影初体験・その1

~魚返一真の自伝的小説~

 ホットドッグプレスの営業は無事に成功(?)。なぜなら間もなく仕事の依頼があったからだ。それで、いったいどんな営業をしたのかというと、やはりどん底雑誌時代と同じだった。だから、結局は良い仕事などあるはずはない。大手出版社での初めての仕事にちょっと浮かれたのもつかの間、やはり仕事は店取材ばかり、つまり店外観、店内、品物(料理)だった。ただ、ちょっとだけ違うのは、ホットッグプレスという雑誌の中には、インタビューやファッションなど魅力的なページが多くあたことだ。いずれそんな仕事をするためにも、ここは下積みと割り切ってがんばることにした。
 取材先は若者が集まる渋谷と原宿が中心。この手の若者雑誌は、若いライター(writer)たちがたくさん働いていて、僕に仕事の電話をくれるのもほとんどが彼らだ。僕は清家、片岡、栗山という名前の3人の女の子のライターと交互に仕事をした。彼女たちは大学生で、僕との年齢差は15歳ほどもあり話が合うはずもない。めんどうだから僕は実年齢を適当に偽って仕事をしていた。遊び盛りのお嬢さんたちと機材をかついで原宿を歩き回るのはつらかった。しかし、業界を全く知らない僕にとってこの頃の経験はとても貴重だった。半ば強引に若い女の子たちと行動することで、少し気持が若返った気がしたのだった。いずれ書くけど、カメラマンになる前の僕の仕事はファミレスの店員だった。バイトではなく正社員。僕は副店長の辞令が降りた時、退社したのだった。話相手が、ファミレスのパートの主婦から若い大学生になったわけだからその差は強烈だ。つまり、若いライターとの取材はリハビリのようなものだった。

 それから数週間が経ったころ、僕を面接した編集者とは別の編集者から仕事の依頼がきた。と言っても、ライターの◯◯が電話すると思いますから、よろしく、、という簡単なもので、間もなく男のライターから電話が来て、清家という女性のライターを紹介された。そう、清家さんはいっしょに原宿のショップ周りをしたライターだった。なんだ、、またショップかあ、、と落胆した。

 清家さんから電話が来た。
「魚返さん、またまたご一緒、よろしくお願いしま~すぅ」
「了解しました。また裏原宿?」
「いえいえ、今度はちょっと違うんですよぉ。実は私も応援にかり出された口なんですよぉ」
「応援ねえ、、つまり僕とセットで応援に行くんだね。それで何を撮るの?」
「女の子です。今度の連休、二日間渋谷の街頭でスカウトします。女の子なら何でも良いってわけではなくて、ホットドックの読者が好むカワイイ女の子をスカウトして、撮影するんですぅ」
「なるほど・・・」
 
 当時、ポパイもホットドッグもこの街角スカウトにかなり力を入れていたらしく、カワイイ女の子がたくさん載っていれば売れ行きも良いという安易さで、両誌は街頭スカウトにしのぎを削っていた。僕はカワイイ子さえ載っていれば売れるという単純さがとてもが新鮮だった。
 撮影当日の朝、渋谷の喫茶店に集合すると、何とカメラマンがいっぱいいた。この喫茶店はB班の集合場所で、A班は別の場所に集合しているという。A班のカメラマンだけで10人近くいた。集まったカメラマンはまちまちで、みんなそれぞれ面識がないから、ただ黙っていた。中には、かなりの初心者もいた。彼はカメラバッグひとつでやって来ている。あれっ?オレって、もしかして、その初心者よりさらに下っ端かもしれないと思った。この時ばかりは、オレは結構年齢がいってるだぜ、みたいな顔をした。慣れたヤツもいる。専属のアシスタントを連れていて何やら偉そう。ヤツはカメラの手入れなどアシスタントに指示して自分はタバコをぷかぷかさえせていた。僕は何が何だかわからず、ボーっとしてB班を仕切っている男のライターの指示に待った。
 僕たちは1チーム3人で動くことになった。3人はカメラマンとライターとアシスタント。僕にも大学生のバイトの中嶋君がアシスタントとして着いた。だけど、中嶋君、、いったい僕にくっついて何をするの?僕はしばらくのあいだ考えた。あっ!そうだったか、僕はとても大事なものを忘れていたのだ。だって、僕はこの時まで一度も女の子のポートレートを撮ったことがないんだからね。
 僕はライターの清家さんに「ちょっとフイルムを買って来ます!」と言ってカメラ屋まで走ったのだった。

□決意後3ヶ月半経過
(つづく)

2009-10-31 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 2 :

『突然プロカメラマンになる方法』(8)業界はややこしい

~魚返一真の自伝的小説~

「あの、何度も申し訳ないんですが、ポパイ編集部の金本さんをお願いします。2時にお会いする予定になっているんです」
「お客様、大変申し訳ございませんが、当社にはそのような雑誌はございません」
「はあ?でもね、実際に電話で金本さんとお話して・・・」
「先ほどから何度も申し上げておりますが、当社にはそのような雑誌はございません」

 すでに五分も、大理石造りの大手出版社の入口で警備員に見守られながら受付嬢とこんな問答を繰り返していた。僕は少し腹を立てていたが、大事な営業だからここは心を鎮めて粘った。

「あのですね、僕はポパイ編集部へ行きたいんです」
「はい、ですから、その、、当社にはポパイという雑誌はございません」

 僕はあきらめて大理石造りの威圧的なビルを出て、公衆電話からポパイ編集部へ電話した。(実際は携帯電話だったかも)

「はい。ホットドッグプレス編集部で~す」とぶっきらぼうに若い男が電話に出た。
「あ、ホットドッグですか、あれれ、、電話番号を間違えました」と言って僕は電話を切った。僕はしばらくその場で考え込んだ。何でホットドッグなんだ?もしかして、僕が電話番号を間違えたか、、、。そんなはずはない。しかし、ポパイ編集部へ電話したつもりがホットドッグ編集部へ繋がった、、頭がこんがらがった。

 ちょっと整理しよう。まず、ポパイはマガジンハウス、ホットドッグプレスは講談社が出版しているというのは業界の常識に等しいらしいことを前置きする。もちろん僕はそんなことを全く知らない。まず僕は、新たな営業先を探すために、立ち読みでいろいろな雑誌の電話番号を控えた。そのリストにポパイもホットドッグプレスも含まれている。そもそも、僕はポパイとホットドックプレスを編集している出版社がどこなのかを知らないばかりか、二つの雑誌の違いさえわからない。ホットドッグプレス編集部にアポを取りながら、僕はポパイ編集部へ電話したと勘違いしたことは十分考えられるのだが・・・。たぶんそういうことだろう。
 しかし、受付の女性も、ポパイはマガジンハウスさんですよ、、ぐらい言ってくれれば良かったのにと思う。しかし、すぐにポパイ編集部へ電話して「金本さんをお願いします」と言ったとしたら・・・。たぶん「そのような者は当編集部にはおりません」と言われるだろう。どっちにしてもダメだ。

 業界は複雑だ。競合雑誌が多過ぎる。ポパイにホットドッグプレスなら良い方だ。ananにnon-no、JJにcancamにvivi、などその他にもたくさんある。むしろ競合誌のないものなどないと言って良い。僕のような初心者が間違っても仕方がないのだが、そんな悠長な事を言っている余裕はない。一刻も早くどん底雑誌を卒業しなくてはならないからだ。僕は出版社ごとの雑誌リストを作った。
 えっと~、、マガジンハウスは、ポパイにオリーブ、anan、ガリバー、ブルータス、hanako、自由時間、などなど。講談社は・・・。小学館は・・・。集英社は・・・。光文社は・・・。調べるうちに、講談社と光文社、小学館と集英社はそれぞれ系列で、これにマガジンハウスを加えた三大グループが雑誌業界の大手らしいとわかった。もちろん、他にも婦人画報社、主婦の友社、などなどあるのだが。
 プロカメラマンは写真を撮ることの他に知っておく必要があることだらけ。僕は頭がおかしくなりそうだった。

(つづく)

□1991年9月。決意後3ヶ月経過
□大手出版社への営業が始まりましたが、いきなりこんな失敗を、、。でも僕はめげませんでした。その後の奮闘をお読みになりたい方は拍手をお願いします!

2009-10-28 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 2 :

『突然プロカメラマンになる方法』(7)プロカメラマンと写真家

『突然プロカメラマンになる方法』(7)プロカメラマンと写真家

「もしもし、リンデンプロダクションでしょうか。カメラマンの魚返と言いますが、社長の渡辺さんをお願いします」
「はい。渡辺です。お話は神楽坂プロの有さんから聞いています。グラビアを撮りたいということで、、、」
「はい。頑張りますので、よろしくお願いします」
「あのですね、いくら有さんの口利きだって、いきなりそれは無理ですよ。まあ、他の情報ページも撮っていただいて、その上で君のお写真がお上手なら撮らせても良いかなと、、、」
「わかりました。情報ページを撮らせていただきます」

 僕はまる二日間、新宿のレストランや居酒屋、バー、焼き鳥専門店などで料理と店構え、店内を朝から晩まで撮った。そして後日、もう一度リンデンプロダクションへ電話をした。すると、意外にも新宿や西新宿の風景やスナップなどを撮って来い、という話になった。もちろん、グラビア用の写真としてだ。僕はその日から、夜明け前に家を出て新宿の朝を撮り、その後は西新宿の通勤風景やランチタイムを撮ったり、とにかく自分が考えつく新宿のすべてを撮った。早朝の歌舞伎町をうろついていて警察官に職務質問されたり、ガラス張りの高層ビルの中にある病院を望遠で狙っていたら、看護婦の下半身を盗撮していると勘違いされ、しっしっ、あっち行け!と追い払われたりした。そんな努力のかいあって、まずまず自信作が撮れたのだった。

 自信作を持ってリンデンプロダクションを訪ねた。中野駅からブロードウェイを通り過ぎて早稲田通りを右に五分ほど歩いた通り沿いのビルの8階にリンデンプロダクションはあった。部屋は2DKだった。そこには渡辺社長と思われる男性と、先日の二日間の店取材ですっかり打ち解けた、二十歳そこそこの若いライターの女の子と、もう一人やはり先日の取材でちょっとだけ一緒だった三十歳ぐらいのお姉さんがいた。渡辺は中肉中背で年齢は40歳ぐらい。若いライターはこの業界に入って間もない感じでちょっと可愛い子、お姉さんの方はベテラン風で地味な女性。僕は二日間の取材で二人とも好感をもっていた。しかし、何故か彼女たちは僕を見ても軽い挨拶をするだけだった。
 「こんにちは」と言って、渡辺にスリーブのままのポジフィルムを渡した。自信のあるものにはダーマトで丸印をつけてある。ダーマトは消せる色鉛筆みたいなもの。無造作にフィルムを受け取った渡辺は大きなフィルムビュアの上に一本ずつ載せて、時おり印のあるカットをルーペで見た。10本のフィルムをほんの数分で見終わった。

「あの、、、」と僕が言い出す前に渡辺がしゃべり出した。
「あんたねえ、ド素人なんだよ。写真が全然だめ」
「あの、、、もっと良く見ていただけませんか」
「まず、先日撮ってもらった料理とか店内とかの写真だけど、まったくダメだった。使い物にならない」
「そんなはずは、、、」
「こっちはこの世界で長くメシ食ってんの。こっちの言うことをちゃんと聞いてもらわないと」
「でも、どこがどう悪いのかわからないので、もう少し説明して頂けませんか」
「てんでダメ。プロカメラマンの仕事じゃないんだよ。説明しろったって、それ以下なんだよ」
「わかりました、料理や店内などの写真は下手で良いです。それで、今日持って来たグラビア用の写真はどうでしょう」
「まあいいから、これを見て。オレが撮った写真だ」

 渡辺は僕の持っ来たグラビア用の写真はそれっきり眼もやらず、引き出しから何やら現像済の短いフィルムを出した。ビュアの上の載ったポジフィルムをルーペで見ると、ただのおっさんが壁際に緊張して立っているのが写っていた。

「見ました。で、この写真が何か・・・」
「良く撮れてんだろう。こういう風に撮るんだ。露出が危険な時は切り現テストと言って、前5コマとかカットしてテスト現像して確認してから、本番の現像をするんだ」
「それがどうかしましたか。このただの人物写真を渡辺さんはわざわざテスト現像までしたんですか。どうしてですか?」
「この人は会社の重役で偉い人なんだよ。失敗があってはならないからだ」
 
 僕にはそのおっさんのポーズやら目つきやら、追いつめられたニワトリみたいで、相当緊張しているようにしか見えなかった。きっと渡辺は被写体を凍らせる天才なんだろう。僕はもう投げやりを通り越してけんか腰になっていた。ちょっと有ちゃんには悪かったけど、仕方ないと思った。

「もう結構です。渡辺さんがいったい何が言いたいのかわかりません。このようなどん臭い写真を見せて撮り方の講義をして恥ずかしくないのですか?」
「何だと!オマエは何様のつもりなんだ。人がせっかく教えてやろうと言うのに」
「僕は渡辺さんから教えてもらいたいなんて思いません。かえって下手になるような気がします」
「オレを何だと思っているんだ。プロカメラマンだぞ!」
「確かに僕はこの歳でカメラマンを目指している世間知らずですし、とてもプロとは言えないと思いますが、あなたのような人をプロと呼ぶのなら、僕はプロカメラマンになれなくてもいいです」
「だったら、いったいオマエは何になるんだ?プロカメラマンでなくして何になるつもりだ」
「僕は写真家になります。いつかきっと写真家になって好きな写真をみんなに観てもらいます」
「オマエが写真家?ちゃんちゃらおかしい。プロカメラマンにさえなれないヤツが・・」
「渡辺さん、僕と勝負しませんか」
「なんだと、偉そうに、、」
「五年後、十年後、僕たちがどうなっているか。それで勝負しましょう。お互いに写真の世界で精進し続けていればいずれ眼につく存在になるはずです。その時の内容で勝負しましょう。どうです、渡辺さん」
 
 僕は追い出されるようにリンデンプロを出た。虚しさでいっぱいだった。でも不思議と悔しさはなかった。ただ、渡辺のような男とやり合ったことが情けなかった。胸の内にずっと閉まっておこうと思っていた「写真家になる」ことを口にしたことがもったいなかった。
 もう後へは引けない。僕はいつかきっと写真家になる。だから今はプロカメラマンとして成長し続けなくてはならない。僕は新しい仕事を求めて新たな営業の旅をする決意をした。

□つづきを読みたい人は応援の意味で拍手してください。
2009-10-20 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(6)たつみやでの話

『突然プロカメラマンになる方法』(6)たつみやでの話
 
 1991年9月のある日。
 神楽坂の有ちゃんから、撮影の仕事があるかもしれないと電話があった。ちょうど僕がどん底雑誌営業作戦を中止しようと思い立ったころだったから、もしや良い仕事ではと少し期待した。有ちゃんと神楽坂の坂の真ん中あたり待ち合わせして、たつみやというウナギ屋へ行った。たつみやは有名なウナギ屋らしく、店にはアラーキーのサインが飾ってあったし、あとでわかったことだけど、ジョンとヨーコもお忍びで通っていたらしい。有ちゃんは度々この店へ来ているらしく、席につくなりうな重の上を二人前と瓶ビールと板わさを注文した。
 有ちゃんの持ってきた話は東京を紹介する旅の情報誌の撮影だった。つまり、またどん底雑誌だ。

「あの、、有ちゃんの気持ちはとても嬉しいんだけど、もうこの手の仕事はやらないことにしたんだ」
「まあ最後まで聞けよ。今回は巻頭のグラビアを撮れるかもしれないんだ」
「ほんと!またまた、嘘でしょう」
「いや、本当だよ。ただし、オレでは決められない」
「誰がカメラマンを決めるの?そもそも有ちゃんの会社が請け負った仕事でしょう?」
「良くあることだけど、ウチが取って来た仕事をさらに別の編プロに丸投げしたんだよ」
「な~んだ、じゃあダメじゃん」
「待てよって、まだ話は終わりじゃないからさ。つまり、オレがその編プロの社長に掛け合って、グラビアの写真を魚返に撮らせてもらえるよう口を利くから」
「そんな我がままなこと出来んの?」
「まあ、そういうことは良くある話なんだけど、問題は魚返の写真が水準以上でグラビアに使えるかってことなんだ」
「なるほど、じゃあまるで問題ないっすよ。オレの写真なら大丈夫。もう決まったようなもんだね」
「あともう一つだけハードルがあるんだ。編プロの社長って一応カメラマンなんだよ。だから、今回のグラビアは自分で撮るって決めてるんじゃないかな。だから、やつより上手くないとね」
「はあ?何でそれを早く言わんのよ」
「まあ上手くやってよ。それより、うなぎ食おう!」

 有ちゃんはまるでノー天気な人で、万事こんな感じで不安いっぱい。ただし、たつみやでウナギを食べられたことは本当に良かった。せめてそう思わなくちゃ有ちゃんとは付き合ってられないよ。


□今回は長いので二章に分けました。(6)につづいて本日中に(7)をアップするつもりです。
2009-10-20 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(6)は本日午後公開予定!

『突然プロカメラマンになる方法』(6)は、現在執筆中です。
午後アップできると思います。
予想外の反響に嬉しくもあり、恥ずかしくもあり。
頑張ります。

□『妄想少年ものがたり』はこの先、がんがんにおもしろくなります。この数回は説明ばかりですが、気長に待っていてください。



遅れています、、17時前後には、、、
2009-10-20 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(5)パリの夜は更けて

~魚返一真の自伝的小説~

 どん底雑誌営業作戦をやめようと思ったのには、実はもう一つ理由がある。その事件は、僕がプロカメラマンを目指して2ヶ月が過ぎたころに起きた。その時、僕が言った言葉は僕自身の胸に刻まれていて、時々思い出しては自らに問うことになる。

 その事件から3年がたった1994年9月のパリ。岩隈久子と男はシャンゼリゼのバーで一日の仕事を終え酒を酌み交わしていた。
 岩隈久子はパリに住み、日本からの取材に来る人たちのサポートをしたり、取材そのものをコーディネイトしている。彼女がこの仕事をやって行けるのは、彼女がずば抜けた洞察力と行動力を持っているからである。相手の男はカメラマンの渡辺直也。日本で編プロを経営している。彼は海外旅行のガイドブックの取材でパリに来ていて、そのコーディネートを岩隈久子に依頼していた。二人はまる一日かかったシャンゼリゼ通りの取材を終えて、グレードの高いレストランで食事をしたあと、雰囲気の良いバーへと流れてきた。これは岩隈久子が今回のガイドブックの巻頭グラビアの特集ページのためにコーディネートしたコースだった。

「渡辺さん、今日は本当にお疲れさまでした」
「久子ちゃんこそ、今回はとても世話になったね。またパリの取材の時はよろしく」
「はい。いつでもおっしゃってください。今夜はトコトン飲みましょう!」
「それはいいね」

 久子は酒がとても強く何種類ものカクテルをまるで試飲しているように次から次へと胃袋へ入れていく。一方、久子に比べれば酒の強くない渡辺も、一仕事終えた安堵感から普段より速いペースでビールからウイスキーへと飲み物を変えて飲んでいた。二人はパリの洒落た夜に意気投合し、まるで親友のように語り合っていた。

「久子ちゃん、君にとって許せない人っている?」と渡辺が唐突に言った。
「そうですねえ、、急に言われても、、渡辺さんにはいるんですか?」
「オレには絶対に許せないやつがいるんだ」
「あら、渡辺さんにそこまで嫌われるなんて、とってもひどい人なんでしょうね」
「そいつは、ド素人のカメラマンのくせに、オレの事務所の女の子に手を出しやがって。とにかく態度の悪いヤツでね、仕事もろくにできやしないんだ。ヤツが撮った写真なんかひどくて使えない。これってもう3年も前の話なんだけど、まだ頭に来てるんだ」
「渡辺さん、ここはパリですよ。シャンゼリゼよ。そんな人の悪口言ったらお酒がまずくなりますよ」
「思い出すたびにしゃくにさわるんだよ。まったく」
「そのド素人のカメラマンさんは何という名前なんですか?」
「久子ちゃんに言っても、わからないと思うけど、、、」
「いいから教えてくださいよ。私がそのド素人の名前だけでもパリの下水道に葬ってさしあげますから!」
「あはは、そりゃいいや。じゃあ、教えるよ。そいつの名前、、オガエリって言うんだ。変な名前だろう」
「あのォ、オガエリって、魚に返事の返って書く、魚返さんのこと?」
「そうだよ。何だ、久子ちゃん知ってるのか。そりゃ奇遇だ。あはは、、、」
「あのォ。実は魚返さんとお仕事したことがあって・・・」
「あっそ、、どんな仕事?」
「隔月刊のミニコミ誌の表紙の撮影。1年分ぐらいはやっていただいた」
「へえ、、、そうなんだ」
「でもね、魚返さんは渡辺さんが言うような悪い人じゃなかった気がするわ。写真もちゃんとしていたし、女の子にどうこうってこともなかったし、絶対に魚返さんのことを誤解していると思うわ」
「久子ちゃん、ヤツに騙されているんだよ」
「いいえ、私はいつだって自分の眼で見てきちんと判断しています。だからこうしてパリでも仕事をしていけていると思っています。魚返さんは絶対にそんな人ではありません。1年間いっしょに仕事をして、ちゃんとわかっているつもりです」
「そうかねえ、、、」
「いったい、魚返さんとの間でどんなことがあったんですか?」
「・・・・」

 1991年の9月に話を戻そう。

(つづく)

□実話に基づいていますが名称などは架空です。今振り返って書いている自分ですら嘘であって欲しいと思うこともあります。次回もどこまで事実を書けるか、、、
□応援の拍手を
2009-10-17 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

タイトル変更について

『突然プロカメラマンになる方法』
~魚返一真の自伝的小説~

連載中の『プロカメラマンになる日本一速い方法』は上記のとおりタイトルを変更します。のちほど第五話をアップします。是非読んでください。拍手や感想、応援メッセージもお待ちしています。
2009-10-17 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :

『突然プロカメラマンになる方法』(4)嘘も方便と言うけれど

 プロカメラマンならポートフォリオを持っているものだ。それは自分の腕前を見せびらかすための写真のコレクションで、自信作がぶ厚い表紙のファイルに整然と納められている。だが僕にはそんなものはない。僕がそれまで撮っていたものは、田舎に帰った時に撮った故郷の自然とか東京の自宅周辺のスナップと鉄道写真。どれもつまらない写真ばかりだ。ポートフォリオかぁ・・・。ないものはし方がない。僕は覚悟を決めた。写真なんてどうでもいいじゃないか。問題はやる気だ。これはどん底雑誌営業作戦なんだ。そう自分に言い聞かせ、手持ちの写真をかき集めてコクヨのA4のクリアファイルに入れた。

「初めまして、魚返です」
 と言って名刺を出す。ドキドキする。

「編集の遠井です。わざわざどうも」
「今日伺ったのは、こちらの雑誌で撮影のお仕事をいただけないかと思いまして」
「なるほど。ところで魚返さんの写真を見せてくれませんか。あとキャリアを教えてください」
 ギョッとした。キャリアなんて考えたこともないし、事実全くゼロ。

「3年弱です」
 と軽い嘘(?)を言いながらコクヨのファイルを差し出した。あとで思えば相手には完全にわかる嘘だったと思う。僕は編集者がファイルを見る暇を与えないために、必死に喋り続けた。10分間、ずっと息もしないで喋った。どんなことを話したかまったく憶えていない。喋り疲れて、あきらめかけていた時、編集者から意外な言葉が返ってきた。

「おもしろいですねえ。うちの雑誌に合っていますよ」
「はあ?あ、ありがとうございます」
「どんな仕事でもいいですか?」
「はい、やらせてもらえるなら何でもします」
「じゃあ、編集長と相談して、後日連絡します」

 数日後、編集者から電話があり、仕事をもらえた。いきなり飛び入り営業で仕事がもらえるなんて信じられなかった僕は嬉しくて飛び上がった。
 しかし、もらった仕事はとても大変だった。信州白馬村へ一週間ほど滞在して、4ページの情報ページを作るというもので、ひとりで全部やらなければならない。写真を撮ることしか頭になかったから、文字を書かなくてはならないことがとてもショックだった。小学校の時の国語の成績は五段階評価2なのだ。受験も国語の試験のない学科を受験したほど国語が苦手なのだ。
 リゾート地のイタメシ屋のメニューを撮って、店主ののうがきをたっぷり聞かされて、出された料理を食べる。次ぎはケーキ屋。ケーキを撮って、主人と自慢の奥さんのなれそめを聞かされ、最後におすすめランチを撮って、またそれを食べるが、なぜかこれまたイタメシ。せめて夜はゆっくり温泉に入ろう。しかし、それも取材だ。レンズの曇りを拭きながら涙も拭いた。この仕事はファミレスの副店長なみに辛いと思った。
 取材を終えて家に帰ってからがまた大変。ちゃんとしたページに仕上げなければならない。この仕事が最後まで出来たのは、前述の神楽坂の編プロに勤める有ちゃんの添削のお陰だった。両手の人差し指二本だけで打ったワープロ出力を持って神楽坂の喫茶店へ行き、ビールを飲みながら直してもらった。
 実は、僕はこの仕事と同時進行で営業も続けていた。そう、どん底雑誌営業作戦だ。結果、同じような雑誌の仕事をいくつももらっていて、プロになる決意をして一ヶ月ちょっとながら、すてにスケジュールはいっぱいになっていた。ありがたい反面、危機感を持っていた。この仕事を続ける体力と気力がないのだ。それだけではない、もっとも大きな問題は、この仕事がはたして僕が求めるプロカメラマンの仕事と言えるのか、ということだった。
 二ヶ月目にして僕はどん底雑誌営業作戦を中止したのだった。
 
■プロカメラマンになる決意後、一ヶ月半経過
□実話に基づいていますが名称などは架空です。今振り返って書いている自分ですら嘘であって欲しいと思うことばかり。これから、あの事やあの事も書くのかと思うと、読者の後押しなくしては書けそうにない。□拍手を願う
2009-10-16 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 4 :

『突然プロカメラマンになる方法』(3)どん底雑誌営業作戦

 僕が考えたのはどん底雑誌営業作戦だ。ここでのどん底とは使っている写真のレベルが低いことの意味だ。美しい写真やカッコ良い写真で埋め尽くされたオシャレな雑誌を総て捨てて、ド素人でも撮れるようなダサイ写真満載のどん底雑誌に狙いを定め営業することにした。理由は簡単。自分の写真のレベルがド素人でどん底だからだ。しかし、そんな雑誌をいつまでも相手にしようとは思っていない。すぐにどん底から這い上がるつもりだ。今の自分にとって最も大事なことは、まずカメラマンとしての仕事にありつく事なのだ。業界のことを何も知らない僕にとって大事なことはカメラの技術より業界を知ることだと思った。そして、写真技術は仕事をやるなかでおぼえて行こうと考えた。
 どん底雑誌はコンビニに行けば山ほどある。僕はノートとペンを持ってさっそく近所のコンビにへ行った。雑誌コーナーの半分はどん底雑誌だった。僕は片っ端から、雑誌名、出版社名、編集長名、電話番号、などメモした。三十分ほどで15誌ほどリストができ上がった。どん底雑誌には、旅行関係や若者の情報誌などが多く、大小様々な出版社から出されていることがわかった。こうしてでき上がったリストを眺めていたらめらめらと闘志が湧いてきた。
 さあ片っ端から電話営業開始!

「もしもし、月刊ルンルン旅編集部でしょうか」
「はい。そうです」
「恐れ入りますが大道編集長をお願いします」
「どちら様でしょうか。私は魚返といいます」
「どのようなご用件でしょうか」
「実は、私はカメラマンで本日はお仕事のお手伝いをさせて頂きたく電話いたしました」
「少々お待ちください」
「大道ですが、、カメラマンの方だそうで。うちでは間に合ってるんですよ」
「どんなことでもします。きっとお役にたてると思うのですが」
「じゃあ、そんな時があったら連絡します」

 総じてこんな電話でのやりとりとなるが、このまま引き下がっていたら仕事はない。

「先週お電話した魚返ですが、その後いかがでしょうか」
「ああ、先週の君かあ、、こっちの状況は何も変わらないなあ。今度電話くれる時は、遠井という人間に連絡してみて」
「はい。わかりました」

 この遠井という編集者が仕事を持っているということだ。

「大道編集長に何度かお電話しましたところ、遠井さんを紹介頂きました。是非お時間を頂けないでしょうか」
「ええ、大道から話は聞いています。お会いしましょう」

 会ってしまえばこっちのものだ。だが、待てよ。どんな営業をすればいいんだ?そもそもド素人の僕には人に見せる写真がない!

■プロカメラマンになる決意後、二週間日経過

2009-10-15 : 『突然プロカメラマンになる方法』 : コメント : 0 :
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プロフィール

ogaeri

Author:ogaeri
1992年より一般の女性をモデルに作品を撮り始める。2008年「鉄道と彼女」を発表した。
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