『桜の小木と生娘のつぼみ』・・・2013.3.29〜その二


2013.3.29 model*たま子



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 見事に咲いた桜並木を選ばず、ひっそりと線路脇に立っている樹齢の若いソメイヨシノをめがけて歩み寄った。近づくと枝はたま子の顔より低い場所にもあって、満開だが桜の花で視界が遮られるというほどに花は密集していなかった。その頼りない満開は清純な感じがして、人間に例えるなら生娘のようだった。
 ふたたび、たま子は乳房を出した。やはり美しかった。それは処女の乳房だった。

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 戦前の小説の中に書かれたある部分を読んで驚かされる。それは、乳房について書いた複数の小説家の文章で、そこには、娘は処女の乳房だった、と断言しているのだ。そこに僕は驚きと共感を感じる。
 眼の前のたま子の胸へと視線をやると、丸い乳房とその中央に小高く盛あがった薄い色のつぼみがあって、それを見た時、まさにたま子が処女だと思った。僕は生娘のつぼみを口に含んでしまいたい衝動にかられながら繰返しシャッターを押したのだった。


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□この作品をご覧になりたい方は拍手をお願いします。。。


2013-03-31 : ファンタジー2013 : コメント : 0 :

『小説の表紙になりました』

20081224eve001 のコピーのコピー

『イヴ』2008.12.24 model*よしみ

 作品『イヴ』は、すでに北海道大学准教授であり詩人の阿部嘉昭氏の詩集『頬杖のつきかた』の表紙写真となっていますが、今回はオランダ人小説家ハリヨン・ゾーマ氏の『Tweestrijd』という小説の表紙に使っていただきました。詩集の表紙はモノクロでしたが、今回の小説の表紙はオリジナルと同じカラーです。詳細はまたこのブログに書きます。


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image-2.jpeg
ハリヨン・ゾーマ(Gerjon Zomer)著『Tweestrijd』2013.4頃刊行予定

abekasho.jpg
阿部嘉昭著『頬杖のつきかた』2009.9.25刊行





2013-03-28 : コラム : コメント : 1 :

『フィルムとデジタル』・・・

今さらですがデジタルとフィルムについて掲示板・web写真塾に書き始めました。長くなったのでこちらのブログに文章を移動しました。いつも貴重な質問をしてくれるイムラくんに感謝いたします。

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 この問題は深いからなあ、、

 まず、この元画像なるものは、ネガそのものの味ではない気がします。(安東さんが言うとおり、最初にアップしたものより親しみがありますが。)デジタル時代の客の好みに合わせてコントラストを高めにしているのではないでしょうか。または、最初からスキャナ自体、コントラストの高い設定になっているかもしれません。
    (ここまでは掲示板に書いています)

 この画像もネガで撮ったとは言え、僕が慣れ親しんだネガカラーの味とは違っています。いくらレンズのクオリティが高いと言ってもコントラストが強くシャープすぎて違和感があります。ネガではなく、ポジで撮ったというなら、少しは理解できそうではありますが。デジタルな感じが強いです。

 また、デジタルカメラマンの写真はどれも似ているという無個性と向き合わなければなりません。その無個性を克服しようとすると、さらに色を極端にする傾向があります。しかし、それはさらに無個性へ向かっているのです。

 では一体、デジタルで作品を撮ろうとする人はどうするべきなのか。それは自分自身の内面に個性を探し求めることが大事です。僕が繰り返し語っているとおりです。そこまで来ると、デジタルであろうがフィルムであろうが同じことです。

 僕が考えるところ、内面を表現するなら、フィルムが勝っているという結論から決して逃げ出すことはできません。何故?理由はともかく、僕ははっきりと自覚しています。(いずれゆっくり書きます)

 僕はフィルムで撮ってできるだけフィルム的に仕上げるよう心がけています。デジタルの人も、フィルム的に仕上げるようにしてみたら表現の幅が上がると考えています。



■まとめ
塾生のイムラくんがフィルムで撮った写真のスキャン画像についてデジタル的だと感じています。つまり、フィルムなのにデジタルなのです。僕の意見としては、フィルムはフィルム的に、またデジタルもフィルム的な感性で仕上げて欲しいということです。


□web写真塾開催中。あなたの作品をアップしてください。僕が講評します。こちら⇒⇒






2013-03-27 : コラム : コメント : 0 :

個展日程確定

個展とグループ展の開催日程は以下のとおりです。
今回は同時開催です。ただし、個展とグループ展の開催時間が違う可能性があります。

25th個展DM裏-写真面

第25回魚返一真個展『スカウト』
2013年7月23日(火曜日)〜28日(日曜日)
渋谷ギャラリー・ルデコ 6

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3rdグループ展DM裏写真面


第3回魚返一真写真塾『ALL GIRL 3』
2013年7月23日(火曜日)〜28日(日曜日)
渋谷ギャラリー・ルデコ 3


□写真塾参加者を募集中です。
2013-03-25 : 25th個展へ : コメント : 0 :

『桜色の丘』・・・

『桜色の丘』・・・作品はGalleryへ移動します。。

2004.3.29 model*詠子(写真集『妄想サロン』より)

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 あの桜の季節に詠子を撮った。桜色の丘にたどり着いた頃には陽は少し傾いて満開の桜は、僕の古い記憶のせいではなく、たしかにセピア色をしていた。あの日から十年が経ってしまった。

 『桜色の丘』を撮影した当時、詠子はある意味で完成した女であった。完成した女の意味は、その時までに身についた彼女の魅力を変えることなく携えて歳を重ねていく段階にあるということ。少女のように突然脱皮してちょっと前の自分を遠い過去の自分にしてしまうようなことはすでになく、詠子は一カ所にとどまって静かに光りを発する女になっていた。

 詠子は角を持ち続ける女だ。それは人を刺す棘のようなものではなく自分を貫くための角である。その一貫した態度は、あくまでもスタイルを変えない古風な日本女性の美意識と同じようなものかもしれない。つまり、角のある詠子はとてもチャーミングなのである。

 再び、詠子を撮ってみたいと思う。彼女が許すならフルヌードが良いと考えている。

  
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□詠子さんのフルヌード撮影に賛成の方は拍手をお願いします。
□この作品は桜が散り始める頃には削除されます。
Twitter(フォローをどうぞ)⇒⇒








2013-03-23 : 記憶 : コメント : 0 :

『スカウト』

2013.3.21(木)16時 渋谷にて

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 映画『ぼっちゃん』を観た。内容は朗らかそうなタイトルのイメージで想像してはならない。しかし、好きな映画ではあった。僕は鬱屈した気分を引きずりながら、ホテル街を抜けて井の頭線北口へ辿りついた。そのまま電車に乗るはずだったが、何か心に引っ掛かりがあって、改札の脇の不規則なデザインの階段を降りてビルの半地下へ。

 そもそも映画『ぼっちゃん』のチラシは2週間ほど前に公園通りの映画館の前で愛らしい女の子に手渡されたものだった。彼女が僕の前に現れなければこの映画を観なかったかもしれない。その時、僕にチラシを渡した女の子をスカウトしたのは言うまでもない。そんな縁で再び渋谷の映画館へ足を運んだ帰りだったから、また素敵な女の子に出会うような予感もあるにはあった。

 ビルの中へ入ると大きな雑貨屋が縦長にスペースを陣取っていて、僕はその脇の廊下を歩きながら店内を見た。客は女性ばかりで10人ほどだった。ひとりの女の子と眼が合う。好感を持ってもう一度彼女に視線をやるとまた眼が合ってしまった。僕は彼女が買い物を終えるまで待った。彼女の魅力的な眼差しを写真にして、いったい彼女の何が僕を惹き付けているのか確かめたいと思った。

 店を出た彼女にモデルになって欲しいと言った。彼女の名前は、まり。彼女にぴったりだと思った。聡明そうな眼、真っすぐな口調、媚びない笑顔、手入れのいき届いた髪、整った品の良い身だしなみ、小柄だが細く伸びやかな足。

 手帳に名前とアドレスを書いてもらった。きちんと本名で書かれてあったことに驚きはなかった。それこそ聡明な眼差しの証明、彼女の実直さの表れだった。

 彼女の愛らしさに触れた満足感から、仮に彼女がモデルになることを拒んだとしても、会話中に見せた爽やかな顔の輪郭こそが作品であって、写真はその時の彼女の記憶をなぞるだけなのかもしれない、などと写真家としてのあるべき使命のひとつを放棄しそうになった。

 つまり、後日彼女の中に潜む真実を撮った結果、自らに対する驚きや賞賛が彼女の心の中にわき上がるような、そんなサプライズを撮って見せることが写真家の使命であって、彼女との触れ合いの中に満足を見つけてはいけない。


 あとは、彼女が写真家の使命を全うする機会を作ってくれることを祈るのみ。


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□まりさんの作品をご覧になりたい方は拍手をお願いします。





2013-03-21 : スカウト : コメント : 0 :

『さくら』・・・1999年春、満開の日に


1999.4 model*YOKO


 荻窪の地下通路でスカウトした女の子だった。
「タレントさんですか?」
「いいえ」
「良かった、モデルになってください」
「私で良ければ、でも、脱げないですよ」

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 誰かが撮った桜の写真を見て特別に感動することはない。それは自分が実際に見た感動の方が常に勝っているからだ。見事な桜である必要はなく、自分と同時に春を生きた同胞としての桜を愛しているのだ。桜とはそういったものだと考えている。つまり、どんなに素晴らしい桜を撮って誰かに見せたとしても、どうということはないと思う。前田真三が撮った吉野の桜は素晴らしいことはわかっている。しかし、人は桜だけは自分で撮りたいと思うのだろう。



 桜が満開の日に撮ったことが何度かある。その日の二人(僕とモデル)は今しかないというような、ある種の頂点の美意識の中で自分を見失っている。しかも僕の場合は、女の子の足や胸を撮りたいがために、たいてい桜はボケている。

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□上記のような僕でありますが、今年は桜に向かいます。
□3/24(日)の写真塾では桜とモデルを撮ります。よろしければお運びください。見学コース(1000円)もあります。


2013-03-20 : 記憶 : コメント : 0 :

『僕に捧げる桜・その2』

20110414012-1_edited-1.jpg

2011.4.14『桜が散る』〜女の子は自転車を停めて舞い落ちる桜の花びらを見つめている。地面を白く覆っているのは桜の花びら。


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 満開の桜は極めて崇高です。単なる花という範囲を逸脱してあたかも桜が何もかも支配したかのようです。光彩陸離な、自らを誰よりも美しい女と考えるような気質です。やがて、満開の桜は峠を越えて見事に花びらが舞い散ります。それは切腹のシーンを思い出させるような潔さです。その時の桜は何者かに覚悟を迫っているようです。

 僕でさえ、満開の桜を観たときは前がかりな気分になります。しかし、しばらく観ていると静かに萎縮へと落ちてしまいます。桜とは、ある人において故郷の小学校のセピア色の大木を想い出させるものでしょう、そして僕もその一人なのです。少年の僕はその幹に頬を寄せました。ごつごつした表面にグロテスクな仮面を発見したことがあります。

 先に、今年は『僕に捧げる桜』を撮ると書きましたから、桜について考えてみたところ、なかなか難しい。誰に嘲笑されようと、やはり僕にとっては、桜とパンチラ、桜と乳房、なのでしょうか。

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□今年の桜はブログで公開します。
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2013-03-17 : コラム : コメント : 0 :

『僕に捧げる桜・その1』

20120419ws013_edited-1.jpg
2012.4.19

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 僕はまともに桜を撮ったことがない。桜は僕には似合わないと思っているから。しかし今、僕は桜を撮ろうと思う。僕だけのために桜を撮りたいと思う。もう開花する。胸の中がざわざわする。この感じがどうも嫌なんだ。逃げ出したくなる。しかし僕は、僕に捧げる桜を撮りに行く。一生に一度くらい桜と向き合うべきだと思ったからだ。

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□作品はブログで公開します。
twitter〜〜〜



2013-03-17 : コラム : コメント : 0 :

『もう一度会いたい・その3』


20130227snap008_edited-1.jpg


2013.2*新宿

 思わずシャッターを押した。そのとき僕は、眼の前を横切るように横断歩道を渡って行く女の子に完全に釘付けになっていた。彼女の全身は何らかの法則にしたがって完璧に着飾られている。こういうファッションは珍しくはないぞ、と自分の心をなだめる。しかし、この成り済ました様はやすやすと出来るはずはない。そう思うと、彼女にとても興味が湧いて胸がざわつくのだった。

            ﹆﹆﹆

 想像〜彼女は、小学校から高校まで私立の女子大の附属に通った。成績優秀だったが、さらに偏差値の高い他の大学を目指すでもなく、そのまま上の女子大へ進学した。専攻は仏文。そこでゼミの男性教授に連れられてシャンソンバーへ通ううちにフランス語でピアフを口ずさむようになった。彼女の男性観は特異であるから恋人はまだいない。好きなものは、千疋屋のゼリーとボードレールと三島由紀夫と自宅で飼っているペットの白いヘビ。爬虫類に興味があるわけではなく白いヘビは幸運を呼ぶと知人に聞いたからだった。今は新宿紀伊国屋の中にある演劇女優御用達のメイク道具専門店へ行った帰り。知人に誘われて詩の朗読会に参加するうちに舞台に興味を持ち始めたのだが・・・

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□『もう一度会いたい』とは⇒街で見かけた素敵な女の子への賛辞です。
□万が一、この女性をご存知の方がいらっしゃいましたらご一報くださいませ。



2013-03-11 : もう一度会いたい : コメント : 0 :

『人形の家』・・・作品(仮)




2013.3.6 model*たま子

□乳房を見せたベストショットはブログでは発表できません。

            †

『この作品は偉大なるヘルムート・ニュートンがナターシャ・キンスキーをモデルに撮影した写真に触発されたもので、おこがましくもニュートンへのオマージュのつもりである。』

            †

 僕が少年だったころ僕のベッドの上にはいつも人形が置かれていた。その人形はフランス人形だったりプードルだったりした。母は家の中に人形があることで田舎の生活がお洒落な雰囲気になると考えていたようで、常時置く場所を数カ所決めて僕のベッドもその場所の一つに選ばれていた。
 僕には兄がいる。母は二人目の子供は女の子であって欲しいと願った。確かではないが、そう受取れるようなことを少年の僕に言ったことがあった。その名残がベッドの上の人形だったのだろうか。しかし、いつもベッドに人形があった疎ましさからか僕は人形を避けるようになり、次第に人形が怖くてたまらなくなった。
 ただ、人形が着ていた肌触りの良い少女趣味な服の印象は、歳をとる毎に甦っては消えて、次第に嗜好として心の中の深いところに溜まった。

            †

 たま子は僕の深層に埋もれた少女趣味を甦らせる女だ。三つ編みのルックスはこよなく乙女チックで、そもそも大人しいことに加えて極めて無口であることは人形的であった。 
 二週間前、僕はたま子のうぶな乳房を見てしまった。その時の静かな衝撃が今もつづいている。古典小説の表現を借りるならば、たま子の乳房は処女を意味していた。
 たま子を想像してみる。彼女はそっと白い乳房を出しお気に入りの人形に自らの母乳を与えているかのようなポーズだった。それはずっと以前にみた著名な写真家が撮った写真に似ていた。

            †

 今日たま子を撮った。僕が妄想したとおり、たま子は処女の乳房を出し無表情な人形に母乳を与えた。時折、僕たちの背後に人が通り過ぎる気配があったが、誰もたま子の授乳に違和感を持っていなかった。ずっと昔、女たちは人前で乳房を出して母乳を与えていた。この時のたま子も昔のようにごく自然に授乳をしていたのだろう。
 たま子はエロチックだった。しかし、やがてたま子の無意識の誘惑は授乳という神聖な生命力によって掻き消されていった。

 僕は、処女のたま子に母性が備わっていることに驚いた。そして、母が人形を置いた意味を解く糸口が微かに見えたような気がしている。


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□個展でこの作品をご覧になりたい方は拍手をどうぞ。。
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2013-03-10 : ファンタジー2013 : コメント : 1 :

『ぼっちゃん』・・・スカウトしました


2013.3.9.14時40分頃

 渋谷で映画を観た。著しく長く感じる映画だった。ぐったりして映画館を出たところだった。こっちを見ながら寄ってくる女の子。手に持っていた映画『ぼっちゃん』のオドロオドロしい雰囲気のフライヤーを僕に渡しながら、
「この映画、よろしくお願いします」言った。
「ああ、この映画ならさっき予告編をみて本編も観ようと思っていたところだよ。きっと観るよ」
「そうですか、よろしくお願いします」

 僕は彼女からフライヤーを受取り渋谷方向へ五メートルほど歩いたところで引き返した。
「ねえ君。この映画に出ているの?」と言ったのは彼女がとてもキュートだったからだ。
「いいえ、出演はしていませんが、声の方で少しお手伝いさせて頂いています」
「ああ、そうなの」
「ところで、あなたは映画関係の方?」
「違うよ、僕は写真の方なんだ」
「そうでしたか」
「僕から君にお願いがあるんだ」
「何でしょう?」
「僕の作品のモデルになってくれない?」
「・・・」

 彼女の品の良い顔立ち、愛らしい笑顔、丁寧な言葉遣い、どれも清々しい。今日の渋谷は、密度の濃い花粉と蒸れるような陽気のせいでかなり不快だったが、彼女に出会えた喜びのおかげで少し癒えた。あとは、彼女からのメールが来ることを願うばかりだ。





2013-03-09 : スカウト : コメント : 1 :

『潮騒とWAVEが聞こえる日に』

            †

 僕は近年数多くの映画を観ることができた。そのことに感謝している。それほど熱狂的ではないものの一人の映画ファンとして映画館に行き、映画の演出に酔うことが好きであった。

 昨日、『アントニオ・カルロス・ジョビン』という映画を観た。アントニオ・カルロス・ジョビン、つまりトム・ジョビンは『イパネマの娘』の作曲者であり言わずと知れたボサノバの巨匠である。
 映画は彼のライブ映像や彼の楽曲をカヴァーした様々なジャンルの著名な音楽家たちの演奏シーンのみで構成されている。その単純で無演出とも言える思想はトム・ジョビンの音楽を愛する者たちへの誠実な演出であった。この映画のどの瞬間を聴き観ても、そこにあるのはトム・ジョビンの世界だけだった。

 ふいに、三島由紀夫の小説を思った。その文章がどこを読もうと三島であることと、誰が唄おうとジョビンの曲はジョビンでしかないということには、表現手段を超越した整合性がある。すると僕の中で三島の『潮騒』とジョビンのアルバム『WAVE』が奇妙な調和をした瞬間があった。

 僕がジョビンのアルバム『WAVE』の一曲目のWAVEをただ安穏と聴いて来てすでに40年が経った。今この映画を観たあとWAVEを聴いてみると、それまでとは違う深い印象を持った。遠い海、遠い空、死んだ人たち、遠い恋人、遠い青春がそこにあった。それは亡きジョビンの魂のせいだろうか。

            †

 僕は、自分が撮った写真がいかに稚拙であろうと、どの1枚を観ても僕であり魚返一真でしかない、そんな写真を撮り続けたいと思う。しかし、それは容易いことではない。二十年間女を撮り続けた今、その難しさがわかる。


            †



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□『どっち?NO.19』のカードは明日発送します。

2013-03-02 : コラム : コメント : 4 :

『赤いアコーディオン』・・・仮作品


※僕が選んだベストカットはアダルト系に類するためこの場での公開を見送りました。7月に開催する25回個展で公開します。

            ♭




2013.2.23 model*たま子

        
 たま子は僕の知る限りもっとも清純な女の子のひとりである。

          ♭

 今日たま子がアコーディオンを抱えているところを撮る。そのアコーディオンはたま子のものである。僕はザ・バンドのガース・ハドソンがアコーディオン奏者であったことを何となく考え、次に愛読している詩集の中にオルガンを弾く女のことを書いた詩がある事実にたどり着いた。そこで僕は無意識にオルガンをアコーディオンに置き換えていた。すると、その詩の中に出てくる女の艶かしさが、次第にたま子への妄想に変化したのだった。

(妄想)〜アコーディオンを抱えた清純なたま子はスカートをひるがえし両足を開くと、その奥の花園はまだ白い下着に覆われてはいたが僕には透けて見えている。さらに妄想はたま子の胸に向かった。たま子の乙女チックで保守的な服の下に、未だ誰にも見せたことのない美しい乳房がひそんでいるに違いない。僕はたま子に「どうしてもあなたの乳房を見たいのです」と正直に云ってみることにしたのだ。僕の妄想はそんな感じだった。

         ♭♭♭

 たま子と会った。今日のたま子はとても繊細で今までになく美しかった。 
 僕たちは武蔵野の雑木林へやってきた。たま子は赤いアコーディオンを抱えて葉ひとつない落葉樹の根元に座った。すると今朝の妄想が甦ってきた。

「撮影の途中で胸を見せて欲しい」と言ってみた。
「・・・」
 たま子はうなずいたように見えたが確信は持てなかった。しかし僕は問い返すのをやめた。たま子が乳房を見せることを期待し撮影を開始した。もし、たま子が拒否したらそこでやめれば良いと思った。

 たま子にワンピースの裾を上げるように言うとたま子は素直に従った。僕はファインダーの中に白い下着が映っているのを確認しシャッターを押した。

「胸を見せてほしい」
「・・・」

 たま子は上から順にボタンを三つ外しさらに背中に手をまわしブラジャーのホックも外し、ピンクのカーディガンとワンピースの胸元をいっぺんに開くとタンクトップの中からしずかに左の乳房をとり出したのだった。ファインダーの中に真っ白で茶碗の内側ように美しい型の乳房がひとつあった。
 僕はたま子のうなずきが本当だったことに感動した。僕は何度もピントを合わせ直し、何度もシャッターと絞りのダイヤルを確認しながら撮影した。それは、この撮影を失敗できないという思いからだった。

 さらに僕は「右の乳房も見せなさい」と言った。たま子が黙って両方の乳房を出したのを見て、僕はいくつかの感嘆の言葉を発したのだった。
 フィルム一本を撮り終えると、僕は深い未了感に襲われ呆然とした。眼の前のたま子を見ると、いつものように静寂が彼女の全身を覆っていた。

          ♭

 駅の近くでたま子を見送った後も僕の中に未了感が残っていた。彼女のアコーディオンの一音すら聞かないで別れたはずなのに、僕の耳にはたま子の弾くアコーディオンの『ちょうちょ』がリフレインしていた。


         ♭♭♭
         ♭♭♭
         ♭♭♭



□この作品を個展で観たい人は拍手をお願いします。。
117th写真塾・model*たま子⇒こちら

          ☆

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2013-03-01 : ファンタジー2013 : コメント : 2 :
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ogaeri

Author:ogaeri
1992年より一般の女性をモデルに作品を撮り始める。2008年「鉄道と彼女」を発表した。
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